新年おめでとうございます。コロナ禍で迎える3回目のお正月でしたが、行動制限等がなかったことで、昨年より帰省や旅行がしやすかったようです。遠くにいるおじいちゃんおばあちゃんに会いに行った子どもたちもいたことでしょう。12月から再び感染が拡大し、園でも何人もの感染者報告がありましたが、早く治療薬が作られ、この禍が過ぎ去って欲しいと願う日々です。今年もどうぞよろしくお願いいたします。
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ナスルディンという男が、自宅前の庭の芝生に這いつくばって何かを探しています。通りかかった友人が尋ねました、「何を探しているんだい?」すると「鍵だよ」とナスルディンが答えました。鍵を無くしたのなら、さぞ困っていることだろうと、友人は一緒に探すことにしました。

 ところが、いくら探しても見つかりません。さほど大きな庭でもないので、何度も同じところを繰り返し探しましたし、二人がかりなら見つかっても良いはずです。そこで友人が「どのあたりで無くしたか、心当たりはあるかい?」と聞くと、ナスルディンは「家の中だよ」と答えました。

 「はあ?家の中で無くしたのに、なぜ庭で探しているんだ!」友人が呆れて問うと、ナスルディンは言うのです、「だって、家の中より外の方が明るくて探しやすいじゃないか」

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 馬鹿な話だと思うでしょ。はい、本当、何をしたいんだか、と失笑するのですが、実は笑ってばかりもいられません。なぜなら、実は私たちも同じようなことをしているかもしれないからです。

 そんなはずはないって?いいえ、例えばこういうことです。困ったことが起きた時、トラブルに遭遇した時、その原因を見つけ出して解決しようとするわけですが、原因を解決しやすそうなところに見出そうとしてしまいがちではありませんか。言い方を換えるなら、自分に都合の良い解釈をしたり、理由づけをしようとし、本当の問題点を見つめようとしないということです。

 真の原因を見つめられなければ、問題は解決しません。原因は、例えば自分にあるかもしれないし、耳の痛い話や、自尊心を傷つけられることかもしれません。でも、原因がそこにあるなら、それを解決しなければなりません。全然違うところを見つめて、なんとかそこに原因らしきものを見出そうとし、それで問題に取り組んでいるように思うのは勘違いですし、時間と労力の浪費です。

 とは言っても、私たちはそういう無駄なことを繰り返すものですし、責任逃れだってしたくなるものです。いつでも、どんなことでも真っ直ぐ進めるものではないし、問題解決だって最短ルートでできるものではないのです。はい、それが人間なのです。

 大事なことは、回り道をしようが、無駄や遅延が生じようが、結果的に問題が解決するための努力を続けることでしょう。ナスルディンだって、探しやすい庭ばかりを探して見つけられなければ、最終的には鍵を見つけるために家の中を探し始めるでしょう。その決断に至るまでの無駄は、結果を見れば無駄ではなかったと言えるかもしれません。 
園長:新井 純

子どもの頃、サンタクロースが来るのが楽しみでした。プラレールの列車をもらったこととか、トミカのタワーパーキングをもらったことなどを覚えています。新聞におもちゃ屋の楽しそうな折込チラシを見つけたら、それを大事に取っておいて、毎日眺めてはどれをお願いしようかと悩むのも、この時期の楽しみだったように記憶しています。

 年長か小学1年生のクリスマスには、自転車をリクエストしました。今は子ども用自転車もシンプルなものがほとんどだと思いますが、50年前はライトや反射板を含め、装飾が施されたものが多くありました。TVの戦隊ヒーローもののバイクのようなものと言えばイメージできるでしょうか。ですから、その時は自転車屋の折込チラシから、カッコ良い補助輪付きの自転車を選び、これが欲しいとサンタクロースにリクエストしたのでした。どうやってリクエストしたかって?はい、パパに言うと、パパが代わりに伝えてくれると言うことでした。

 クリスマスを迎え、お祝いする食事を楽しんだ後にくつろいでいると、家のどこかで「ミシッ」という音が聴こえます。古い木造だったので、音なんてしょっちゅうしていたのに、この日ばかりはそれがサンタクロースがやって来た合図だと信じ、家中を探し始めます。すると、家のどこかの窓か扉が開いていて、そこにプレゼントが置いてあるのでした。

 自転車をリクエストした年、確かに自転車が贈られました。でも、それは悩みに悩んで選んだ自転車ではありませんでした。シールも付いてなければ装飾もない、シンプルなものだったのです。ガッカリしました。パパはちゃんと伝えてくれたの?カッコイイのが欲しいって言ったのに!

 「サンタさんはこっちの方がいいと思ったんじゃない?」そうか、そうなのか? 何だか納得できないけど、そうなのかも。結果、私は長くその自転車に乗り続けました。子どもっぽい装飾がされたものなら、やがて恥ずかしくなって乗れなくなっていたでしょう。でも、シンプルだったがゆえに、長く乗り続けられたのです。

 神様は、私たちの祈りを聴いていて下さいます。ただ、願いが叶うわけではありません。私たちの願いで神様を動かすことはできないのです。神様は私たちの祈りに耳を傾けつつ、私たちに本当に必要なものを備えてくださる方なのです。

 キリストの誕生もそうでした。人々が願うような救い主ではなく、人々の期待を裏切るような救い主でした。でも、それこそが本当に私たちに必要な救い主だったのです。 
 園長:新井 純

卒園生がカクレクマノミの飼育を始めたと教えてくれたのでビックリしました。ディズニーの「ファインディング・ニモ」の主人公として有名になった海水熱帯魚で、オレンジ色に太めの白いバンドが愛らしい魚です。自然界では、イソギンチャクの中に隠れることでも知られています。

 そんなカクレクマノミですが、飼育するのは簡単ではありません。以前、その子のお母さんから、飼育したいとせがまれているがどうだろうか、と相談を受けたことがあったので、小学生には海水魚飼育は難しいから、淡水の熱帯魚から始めてはどうか、とアドバイスしていました。

 金魚やメダカを飼育することはさほど難しくはありませんが、うまくいく人といかない人がいます。どこに違いがあるのかと言うと、環境が整ったかどうか、で差が出るのです。

 具体的に言うと、金魚やメダカなど観賞魚は水槽や金魚鉢で飼いますが、限られた水量の中に放り込まれます。その中で、魚は餌を食べ、糞尿をします。糞尿はアンモニアという有害物質なので、そのまま放っておけば魚はたちまち死んでしまいます。毒の中では生きられませんからね。

 そこに登場するのがバクテリアという微生物です。水槽に設置したフィルターや砂利などにバクテリアが付着します。このバクテリアの中に、アンモニアを餌とするものがいて、有害なアンモニアを、害の少ない亜硝酸という物質に変えてくれ、さらに、別のバクテリアが亜硝酸をより害の少ない硝酸塩に変えてくれます。このバクテリアをたくさん水槽内で繁殖させるために、フィルターと呼ばれる器具を設置するのです。

 実は、金魚やメダカも、熱帯魚も海水魚も、飼育の仕組みは同じです。ただ、海水ではバクテリアの繁殖スピードが遅く、さらに海は池や川のように一瞬で環境が変化することがほとんどないので、海水魚は環境の変化に極めて敏感です。つまり、体調を崩して病気になりやすいのです。逆に、金魚やメダカは、多少の変化は問題になりません。だから、金魚やメダカは飼いやすく、海水魚は難しいのです。

 この卒園生、毎日のように熱帯魚店に通い、店員さんからたくさん学んだそうです。そして、ついに親を説得し、ニモの飼育に成功しました。恐れ入りました。

 好きこそ物の上手なれ、という言葉があります。好きだからこそ熱心に学び、吸収も早いということを意味します。ですから、興味を持ったことに、興味を持った時に取り組める環境が整えられるのが理想です。タレントのさかなクンは、毎週末水族館に通わせてもらったと聞きました。ある時期はタコが好きになり、朝から閉館まで、ずっとタコの水槽の前にいてタコを観察していたそうです。お母さんはそれにずっと付き合っていたというのですから、感心するほかありません。それが理想だとわかっていても、さすがにそこまでは、と思ってしまいますよね。

それでも、学びのきっかけは好奇心ですから、その好奇心を抱くきっかけを増やし、学びの入り口に立たせることは比較的容易です。ですから、子どもたちが関心を示し、学ぼうとするきっかけ作りには、色々とチャレンジしていきたいと思うのでした。 
園長:新井純

ちょうど1年前に召天した父の遺骨を散骨するため、9月半ばすぎに長崎に行ってきました。折りしも最強レベルと言われた台風14号が九州や中国地方に襲来するタイミングだったため、予定していた飛行機が欠航、翌日の始発に振り替え、予定を短縮する強行軍となりました。

 散骨は、熊本県天草市と長崎県南島原市を結ぶフェリーの上から行いました。これを聞いて「九州のご出身?」と尋ねられることがありますが、父は群馬県の出身なので、全く違います。

少し歴史の復習をしましょう。キリスト教が伝来した1549年以降、キリスト教は一気に広まり、特に長崎では大名も信仰を持ち、地域ごとキリスト教徒なるという現象も起こりました。しかし、大名と庶民が信仰を介して仲良くし過ぎるのは、将軍にとっては反乱の危険が増すと思われて警戒しなければならないことでした。また、宣教師に紛れて人身売買をする連中が忍び込み、日本人を奴隷として連れ去るという事例もあったと言われています。さらには、急激に勢力を伸ばしてきたキリシタンを仏教界が警戒しました。そこで仏教界は将軍をそそのかし、豊臣秀吉はバテレン追放令を、江戸幕府は禁教令を発令したのです。

でも、「信仰を捨てろ」と言われて、「わかりました」という人はいません。大好きな人がいるのに「好きになってはいけません」と言われたからと言って、素直に聞き入れたり諦めたりできないのに似ています。ですから、たくさんの人たちが信仰を捨てずに処刑されたり、何よりも信仰を持っていることを隠して暮らすようになりました。

そのため、お墓もキリシタンだと気付かれないように工夫されました。人目につかない林の中に墓地を作るとか、墓石だとわからないように、自然石の裏にこっそり十字架を刻んだりしてお墓を隠しました。なので、墓石だと気付かず、現代ではそれを庭石にしたり、石垣に使ったりしていました。

それら潜伏キリシタンの墓石を古文書を頼りに探し出し、墓石を通してキリシタンを研究するというのが父のライフワークでした。そのため、父は思い入れのある彼の地に、自らの遺骨を散骨するよう言い残していたのです。

キリスト教では、目に見えるものではなく、目に見えないものを大切にするという教えがあります。目に見えるものはいずれ消え去るけれども、目に見えないものは永遠に続くというのです。確かに物質的なものは、やがて朽ち果てます。この地球でさえ、あと50億年もすれば消滅すると言われているくらいです。でも、親が子を思う愛などは、目には見えませんが、誰にも邪魔されることなく、永遠に残り続けます。たとえ肉体が滅んでしまっても、私たちの心は永遠だからです。

 私たちはつい見た目を気にしたり、対外的な面で見栄を張ってしまったりと、無駄なことに心を砕くことがありますが、実は本当に大切なものは、高価なものでも、きらびやかなものでもなく、ごくごくシンプルに、優しく、楽しく、穏やかだったり、爽やかだったりという、心地よい時間や関係性なのだということに気づきます。子どもたちとそうした時間を過ごすことは、子どもたちにとっても、私たち大人にとっても、必要で大切な時間なのだと改めて思うのでした。
園長:新井純

9月になろうというのに、園舎裏の林からはクマゼミやツクツクボウシの鳴き声が聞こえてきます。いつまで続くのでしょう。

8月の初め頃、通勤途中の街路樹の、しかもかなりの大木の下を通った時には、物凄い数のセミが驚くほど力一杯鳴いていました。シャオシャオシャオシャオシャオシャオシャオシャオシャオシャオシャオと、「これは騒音公害と言われるレベルだな」と妙に感心しながら、思わず苦笑してしまうほどでした。その後、海釣りに行った際、普段は沖に出るのですが、その時は船頭さんが岸近くに船を進め、やはり岬の森の中から、全力のセミの合唱がうるさいほど聞こえてきて、まさか海の上でここまでやかましいセミの声を聞くとは思わなかったと、これまた苦笑いするのでした。

セミの地上での寿命は1週間ほどと言われています。その間に子孫を残すのですが、そのパートナー探しをするために鳴くのだそうです。

 地上に出る期間が1週間ということで、「かわいそうだ」とする見方は、昔からされてきたと思われます。「セミは1週間しか生きられない。だから、一生懸命生きている」と。

 でも、それは違います。一般的なセミは地中で6〜7年ほど暮らしながら成長しています。その間は樹の根っこから養分を吸い取ります。それは決して不幸なことではないはずです。だって、蝉にとってはそれが当たり前だからです。なのに、地中での生活が幸せではないと考えるのは、人間の勝手な思いこみでしょう。ミミズだって、オケラだって、モグラだって、主に地中で生活している生物は、むしろ明るいところに出てくると、外敵に襲われたり、干からびたりして、ろくなことはないのです。もし人間が地中に留め置かれたら、それは不幸なことだと言っても反論はされないかと思いますが、地中で生きることを決めた生き物は、地中こそ居心地の良いところなのです。

 こうした勘違いや思い込みで、私たちは失敗します。自分の思い込みだけで、隣人が幸せか不幸かなんて、決められるはずがありません。

 最近、山中に小さな土地を買い、そこに自分で小屋を建てて暮らしている家族のことがテレビで紹介されていました。世間のさまざまなしがらみから解放されて、せかせかしない、なるべく自給自足のスローライフを楽しむ生き方を選択したということです。

思うに、昔の人たち、特に田舎暮らしの人たちは、特に選択をするつもりがなくてもスローライフでした。だから、自給自足や、いわゆる一般社会の中で仕事をしないで生活することは特別なことではなかったのですが、便利な世の中、スピード感のある社会生活にはめ込まれていると、スローライフは、時代に逆行するかのように受け取られるのかもしれません。確かに現金収入は少ないかもしれないし、多くの人が当たり前のように現金収入を得るために働く世の中では、そうした生き方は奇異の目で見られることさえあるでしょう。

でも、自分の人生なのですから、生き方はそれぞれが決めれば良いことです。周りがとやかく言うことではないし、好きか嫌いかは自分で決めれば良いのです。ピカソの絵が好きかどうかも、自分で決めるのです。   

 園長:新井純

観測史上最速で梅雨が終わったはずなのに、戻り梅雨って何やねん!と思わず突っ込みを入れたくなった園長です。正式な記録としては後から状況を分析して梅雨明けを決めるそうで、「あの時はまだ梅雨明けじゃなかった」ということもあるそうです。気象予報士はデータを分析して天気を予想するのが仕事であり、未来の天気を決めるわけではありません。あくまでも予報なのです。自然のことを人間の知恵で知り尽くすことなどできないことを考えれば、予報が外れたからと痛立つことも減ると思うのですがいかがでしょう。

 新型コロナの感染状況がすごいことになっています。ピークは8月上旬という説もありますが、ここに来て海外で「ケンタウルス」なる新株が登場したとの報道があります。きっともうしばらくすると日本でもデビューを果たし、大暴れし出すことでしょう。コロナ騒動の終焉が未だに見えない中、ニュース番組ではキャスターが医療関係者に「いつまで続きますか?」などと質問し、「いつまででしょうね。私も早く終わって欲しいと思っているのですが。」と答えるのを聞いて、笑ってしまいました。みんなこの先どうなるのかを知りたいと思うのですが、専門家でもわからないのです。ただ、みんなが疲弊しているだろうと想像すると、何とか見通しは立たないものかと、無駄な思案をするのです。

先日とある会議で出席者の一人が「原発再稼働や自衛隊の海外派兵に反対する意見もあるが、そんなことを言ってる場合ではない。北方四島からロシアが北海道に攻めてくるかもしれないし、天然ガスの輸入がなくなるかもしれないのだから。」

いかにも現実的で、率直な意見なのだと思いましたし、それが今の世論の多数派なのだと思いました。同時に、仮想敵国が北朝鮮や中国から、ロシアに変わっていることにも注目しました。プロパガンダが見事に成功しているということです。

確かにその可能性を否定することは出来ないし、万が一に備えておかねばならないと考えるのは、現在の世界情勢を考慮すれば、現実的な判断ということになるでしょう。
でも、だからこそ手を挙げて発言しておきます。「原発事故であなたの現在の生活や故郷がそっくり失われて補償も受けられないことになっても文句を言わない覚悟はできていますか?軍備増強や平和憲法の放棄に賛成し、日本が外国での戦争にも参加するようになったら、そのつけは子どもたちの命で払うことになるということを知りつつ、その覚悟がありますか?」

状況が変われば、それに対応して変化することは必要です。世の中の情勢に合わせて、自分も周囲も変わっていく方が良いものもあるでしょう。新型コロナの対応などまさにそうで、初めはわからなかったことがわかってきて、度重なる新株の登場で、感染防止策も変わってきました。何を一番大事にするか、その考え方も変わりました。何事につけ変化は必要なのです。

しかし、変わらず守り続けるべきものもあると信じます。それは一人ひとりの命の価値、尊厳です。自分の命や家族の命はもちろん、みんなの命と尊厳が守られねばなりません。そのために作られ、今日まで守られてきた憲法という防波堤を、簡単に崩したくはないのです。
園長:新井純

「電池が切れるまで」という本を手にしたのは、いつのことだったか。調べてみると18年くらい前のことだったようです。長野県立こども病院に入院している子どもたちが書いた詩と、その背景を記した記録です。その中に、本のタイトルの元にもなった「命」という作品がありました。

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『命』 宮越由貴奈

命はとても大切だ
人間が生きるための電池みたいだ
でも 電池はいつか切れる
命もいつかはなくなる
電池はすぐにとりかえられるけど
命はそう簡単にはとりかえられない
何年も何年も
月日がたってやっと神様から与えられるものだ
命がないと人間は生きられない
でも、「命なんかいらない。」と言って
命を無駄にする人もいる
まだたくさん命が使えるのに
そんな人を見ると悲しくなる
命は休むことなく働いているのに
だから 私は命が疲れたと言うまで
精一杯生きよう

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本の中には、何人もの子どもたちの作品が収録されています。回復して退院して行った子もいれば、病院で最期の時を迎える子もいます。「命」を書いた由貴奈さんは、これを書いた4ヶ月後に旅立ちました。11歳でした。ちょうど私の子どもたちも似たような年齢だったので、もし我が子だったらと想像し、やるせない思いで繰り返し読んだことを思い出します。

以前、後輩の牧師が「天寿を全うしたから良かったとか、まだ若かったから残念だ、という言い方はおかしい。幾つになっても死を悲しいと思うケースもあれば、若くして亡くなっても充実した人生だったと言える人もいる。」と話すのを聞き、その通りだと思いながら、由貴奈さんのこの詩を思い浮かべました。

でも、やはり11年は短いと思わずにいられません。なのに、彼女は最後まで精一杯生きようと言っているのであって、長生きをしたいと言っているわけではないところに引っかかりました。すでに11歳で、希望を抱きつつも終焉を見据えているとしか思えなかったからです。

長野県安曇野市にあるこの病院のホームページには、まるでテーマパークのような楽しげな外観の建物の写真が出てきます。建物自体が、病気との闘いや、場合によっては親子離れ離れになってしまうかもしれないという不安を和らげる一助になっているのは間違いありません。不安は子どもだけでなく、親御さんも同じでしょう。でも、その外観にさえ、「大丈夫だよ。一緒に頑張ろうね」というメッセージが込められているように感じられ、ケアをするということの真髄を見せられた思いでした。

戦争の報道が繰り返される中で、子どもたちには、改めて命の大切さと尊さを伝えたいと思っています。神様から与えられたかけがえのない命を、私もあなたも、精一杯生きているということを知るために。         

園長:新井純

 数日前、知床で沈没したKAZUⅠという観光船が引き上げられました。事故原因究明や遺族感情を考慮した引き上げだったわけですが、小さいとは言え沈没船を深い海から引き上げるのは簡単なことではありませんでした。この作業を依頼された日本サルヴェージという会社は、西太平洋エリアでは最も優れたサルベージ会社だそうで、卓越した技術と豊富な経験がこの作業を可能にしたのでしょう。

 ところが、完全に引き上げる前には、せっかく引き上げかけた沈没船を、さらに深い海に落下させるという事故が起きました。船を吊り下げていたロープの一部が切れて沈没船がずり落ちたということでした。

 このことを巡り、厳しい意見が飛び交いました。ネットでは、「日本のサルベージ技術にガッカリした」などのような発言も見られましたし、国会でもなぜこのようなことが起きたのかと追求する発言があったそうです。

 こういう発言を見たり聞いたりすると、果たしてこの発言者たちの正義ってどこから来るの?と思わずにいられなくなります。沈没船を落下させたのは技術的な問題だったのか、想定外ということを含む不可抗力だったのか、はたまた単純なミスだったのか、それは専門家が見極めるでしょう。ただ、少なくとも繰り返し報道されていたように、極めて難しい作業であったことは容易に想像できます。それでも事故は起きるのです。

 なのに、事故が起きたら、途端に正義感に満ち溢れた人たちがそれを振り回して非難を始めます。今回のことばかりでなく、日常的に発生する事件や事故について、にわか評論家となった人々が自分の正義を盾に誰かを攻撃します。その正義、どうしてあなたは振りかざせるの?

 残念ながら、私たちは自分たちが思う正義が正しいと勘違いします。でも、必ずしも私が思う正義が正しいわけではありません。私は所詮私が経験したり習得したりした知恵や知識、技術や経験の範囲でしか判断し得ないからです。例えば、私が何かを非難したとして、その指摘が間違いではなかったとしても、その事件や事故の背景には、当人たちにしかわからない事情があるのかもしれないし、それを知ったら私も「あ〜、それは仕方ないね」と意見を180度変えるかもしれない可能性さえあるのです。でも、正義を振り回しているときには、それが大変な過ちであることに気づきもしません。だって、自分は正しいと思っているのですから。

 正義の刃は、人を傷つけます。グサグサ突き刺しまくって瀕死の重傷を負わせてなお、私は正しいと開き直るのが、正義の恐ろしさです。でも、覚えておかねばなりません、その刃はいつか自分にも向けられることを。大切なのは、想像力です。そして、思いやる心です。

 新型コロナ感染症が流行し出した2年前、世光保育園は報道で呼びかけられるよりずっと前から「感染者が出ても特定しようとせず、互いに思いやりを持ってください」と呼びかけてきました。なぜなら、私たちは、お互いを大事に思い合うことを大切にしたかったからです。思いやりを持てる子どもたちを育てたいからです。なぜなら、神様がそう望まれているからです。

園長:新井純

 今年もゴールデンウィークが始まります(終わってから読まれる方もおられるかも)。今年は最長10日間だそうですが、間に挟む平日に仕事がある方もおられるし、休日だからこそ出勤しなければならないサービス業の方もおられるでしょうから、必ずしもみんなが連休になっているわけではありません。それでも、ゴールデンウィークだと騒ぐのは、やはり連休になる人たちの方が多いからなのでしょうか。新型コロナ第7波が心配されながらも観光地にはお客さんが戻って来て、それなりに賑わいを取り戻しているとの報道を見ると、この連休は京都も賑やかになりそうです。
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 3月末のことです。インドネシアのサッカー場で、試合前に選手たちが「戦争反対」のバナー前に立って、ウクライナを支持するアピールを行いました。ところが、二人のパレスチナ人選手がそこに並ぶの拒否したので、そのことが話題になりました。一人が言います。「公平さも正義もない」

 パレスチナは、長い間イスラエルからの大きな暴力に苦しめられています。イスラエルはパレスチナからのテロ行為に報復するためだとして、パレスチナを爆撃することを正当化していますが、パレスチナからすると日常的に理不尽な暴力にさらされ、空爆をはじめさまざまな攻撃によって犠牲を強いられているので、そのことへの怒りが爆発して反撃をすると、「テロ行為だ」と断罪されるという不満を抱えています。

 くだんのサッカー選手は、そうした理不尽な暴力を世界にアピールしようとして、かつて戦争反対を訴えようとしたそうです。でも、その時は国際サッカー連盟から「サッカーと政治は別物」「そのようなアピールは規則に反する」と言って、アピールさせてもらえませんでした。なのに、今回ヨーロッパで同じようなことが起こった時、当たり前のように戦争反対を訴えることが許されるのはなぜだ?というわけです。

 この選手は、ロシアを支持しているわけではありません。ウクライナ侵攻を支持しているのでもありません。戦争には反対なのです。でも、中東やアラブ人が蔑まれていると感じないではいられない状況の中で、公平であることを求めたのです。

 この記事を読んだとき、ドキッとしました。確かにこの選手の言う通りです。パレスチナにどれだけ想いを寄せただろうか?アフガニスタンはどうだ?ミャンマーは?

 欧米諸国は正義、東側は危険、中東はもっと危険、そんな短絡的な決めつけをして来たつもりはありませんが、私の中で公平ではなかったとの思いは沸々と湧いて来ました。戦争反対を訴えることは良いこと、当然のことだと認識していますが、果たして全ての戦争について同じ思いでいただろうかと、顧させられたのです。

 思いは、いつも自分が思っているのと同じように受け止められているわけではありません。逆の立場になれば、汲み取れきない思いもあるし、想像から漏れている事柄もあることを自覚します。それでも、想いを受け止めてくれる人が一人でもいることを知れば、わたしたちは希望を抱き続けることでしょう。なぜなら、それが公平の第一歩だからです。 

園長:新井 純

  新年度がスタートしました。未だ新型コロナ禍が続いていますが、健康が守られ、子どもたちが元気に楽しく過ごしながら、たくさんの経験を積んで、しっかりと土台作りができるようお祈りします。

  経験を積むこと、これがいかに大切かは言うまでもありません。経験したことであれば見通しがつくので、物怖じしないでスムーズに出来たり、落ち着いて取り組めたり、さらなる工夫をもってより良い結果をもたらすことも出来ます。

  例えば、園では時々お散歩に行きますが、道中は大事な「経験」の場です。特に、車やバイク、自転車などが行き交う道路を歩くことは、交通ルールを学び、しかし全ての人がルール通りに動いていないことをも知り、その上で自分の命を守るためにはどのように行動すれば良いのかを、繰り返し経験して学びます。これは、交通安全教室などで1度や2度教えたからと言って覚えられるものではありません。正確には、繰り返し体験し続けることで、身に付いていくものです。しかも年齢や個人差で身に付き方も違います。子どもは好奇心旺盛で目に付くさまざまなものに興味を惹かれますし、友だちとの話に夢中になって注意力も散漫になります。「公園に着いたらいっぱい遊ぼう」と声かけしても、道端にアリを見つけるだけで、そこに気を取られるのが子どもです。ですから、同じような注意を何度も繰り返すことになりますが、そういうことを繰り返して道路に潜む危険を知り、道を歩くときにはどのように安全確保をするのかを体得していくわけです。

  あるいは、日常生活の中でのお買い物。スーパーに買い物に行くと、様々な食材から大人は自分が必要だと思う野菜や魚や肉、その他いろいろな物をカゴに入れていきます。お菓子を買って欲しくて、お願いをしてみる子、要求を通したくてギャン泣きする子、選んだお菓子を手に嬉しそうにしている子なんてシーンも見ます。やがてレジに並んで精算をします。お金を払い、あるいは最近はカードを機械に挿したりかざしたりして精算をすると、買ったものを家に持って帰れます。この当たり前のことも、日々の生活の中で経験を重ねることで覚えるのです。有名なセレブ女優が、大人になってから銀座で買い物し、そのまま持って帰れると思ったら「お支払いを」と言われてビックリしたというエピソードを聞いたことがあります。普段はデパートの外商が家まで商品を持ってきてくれたり、買い物に行ってもお付きの人が支払うので、自分自身は買い物をした経験がなかったので、お金を支払うということを知らなかったのです。このことからわかるのは、経験がなければ大人も子どもも関係ない、「当たり前」が当たり前ではないこともあるということです。

  お家やご家庭でなければできない経験があります。園や集団でなければできない経験もあります。その両方の経験を重ねながら、子どもたちは成長していくのです。しかし、新型コロナ禍は、様々な経験の機会を奪い、特に集団での活動に制限をかけてきます。でも、巣穴にこもっていたのではできない経験や成長の機会を、出来るだけ子どもたちに提供したいと考えます。
これからの1年間、神様に守られて、子どもも大人も成長できるよう祈ります。

園長:新井 純


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