沖縄県の本島中部、本部港からフェリーで30分ほどのところに伊江島(いえじま)という小さな島があります。周囲約22キロ、人口4500人の島です。島のほぼ中央にタッチューと呼ばれる城山(グスクヤマ)がピョコンと突き出ている姿が特徴的で、有名な美ら海水族館(ちゅらうみ)に行ったことがある方なら、海を隔てた正面にある島だと言えば思い出せるかもしれません。そこに阿波根昌鴻(あわごんしょうこう)さんという平和運動をした方がいました。阿波根さんは、元々は農夫でした。その彼が平和運動を始めたのは、生きる術である農業を営むための農地を米軍に奪われてしまったので、それを返して欲しいと願ったからです。

太平洋戦争末期の1945年4月1日、米軍は沖縄本島に上陸し熾烈な陸上戦が始まります。米軍は東洋一と言われた長い滑走路を持つ基地があった伊江島にも上陸、いとも簡単に占拠します。本島は南北に分断され、北側にいた人たちは北端へ、南側にいた人たちは南部に逃げて行きます。南部の撤退戦は激烈を極め、兵士のみならず9万4千人もの民間人も犠牲になりました。余談ですが、米軍の上陸から1週間後、日本軍は嘉数高台(かかずたかだい)という丘で待ち伏せをし、米軍を迎え撃ちました。16日間にわたる攻防の末、日本軍は多大な犠牲を出しつつ撤退を余儀なくされますが、この時に嘉数高台を守っていたのが地元沖縄に加え、京都、北海道から派兵された部隊だったそうです。なので、京都の慰霊碑は今も嘉数にあります。しかも、沖縄にある47都道府県の慰霊碑の中で「再び戦争の悲しみが繰り返されることのないよう」にとの思いを刻んでいるのは、京都の塔だけだそうです。

 さて、伊江島の阿波根さんは、敗戦後も米軍に奪われた土地を返してもらえず、むしろ島のほとんどが米軍に接収されてしまったために農業を営むことができず、仲間たちと共に返還運動を始めました。その際、相手を罵ったり攻撃的になれば、相手も力づくで向かってくる。相手が鬼畜米英なら、我々は人間になろう。と非暴力での訴えを続けました。それはまさに大きな忍耐を必要とする自分自身との闘いです。でも、その精神はのちの平和運動に大きな影響を及ぼし、アメリカの黒人解放運動の指導者の一人「I have a dream.」で有名なマーティン・ルーサー・キングJrにも影響を与えたと言われています。阿波根さんたちは粘り強く交渉を繰り返し、現時点では島の65%の土地を返してもらいました。でも、まだ35%は奪われたままです。沖縄戦はまだ終わっていないのです。

 今から30年以上前、私がまだ大学院生だった頃に初めて伊江島を訪れた際、まだご存命だった阿波根さんから直接お話を聴くことができました。その時、主要産物の一つである菊の栽培について、最近周囲の農家は成長を早めるために夜でも蛍光灯をつけて明るくしていることを紹介し、彼はこう言ったのです。「人間はとうとう花までだますようになってしまった。」

 私の平和は誰かの涙の上に成立しているのではないだろうか、効率だけを求める発想の陰で失っているものはないだろうか、そんなことを考えさせられたのでした。 
 園長:新井 純

  「私は長年祝福されて生まれてくる命ばかりを見てきました。でも、そうではない命があることを知り、黙って見過ごせなくなったのです。」この夏に参加した研修で、講師のお一人であった公社)小さないのちのドア代表理事である永原郁子さんが発した言葉でした。助産師として働いてきた永原さんは、望まない妊娠で悩む女性たちや、人工妊娠中絶を選択し、そのために苦しみ続ける女性たちを見て、最も小さい命である胎児や新生児、そして弱い立場に置かれている女性たちが大切にされる社会の実現を目指し、24時間365日の相談事業「小さないのちのドア」を設立しました。設立後2024年3月末までの5年7ヶ月間で寄せられた相談件数は59,955件だったといいますから、こうした相談窓口が全く足りていないということがよく分かります。

  熊本県にある慈恵病院が赤ちゃんポスト「こうのとりのゆりかご」を開設し世間が大きな衝撃を受けたのをご記憶の方もおられると思います。賛否両論渦巻く中、当時の理事長と看護師長をお招きして講演していただいた時の言葉を思い出します。「もう我慢ならん。待ったなしだった。」新生児が駅のコインロッカーに遺棄された事件が続いた時に、炎上覚悟で赤ちゃんポストの開設を決断したとのことでした。実はこの時最も驚いたのは、こうのとりのゆりかごがスタートして2年が経とうとしていたのに、講演依頼をしたのが私たちが加盟している日本キリスト教保育所同盟が初めてだったということでした。賛成であろうと反対であろうと、どのような思いでこの事業を始めたのか、その思いにきちんと耳を傾け、必要なら失礼承知であろうと疑問に思ったことはなんでも尋ね、理解を深めるための議論を重ね、その上で自分なりの意見を持てば良いのに、世間は設立者たちの思いは聴かず、ただイメージと思い込みだけで賛否を語っていたことになるのです。なんとも無責任な社会です。

 こうのとりのゆりかごも、小さないのちのドアも、根底には望まない妊娠や出産という問題があります。しかも、ほとんどが女性一人で悩んでいるようです。一人ぼっちでどれほど怯えながら心細い思いをして悩み苦しんでいたのかを想像すると、切なくなります。だからなのでしょう、永原さんは、特に中高生が妊娠した際に大人たちにこう言うそうです。「今は怒る時じゃないです、支える時です!」周囲の大人たちがその問題を知って抱えるストレスを本人にぶつけたところで問題は何も解決しないどころか、本人をますます孤立させ、関係を破壊していくだけです。怒りもするしストレスも抱えるでしょう。でも、そういう時だからこそ「もし私が同じ立場になったら?」という想像力があるか否かが問われます。

 自己責任論が強い日本では、社会全体でこうした問題を受け止めようとはしません。いわゆる里親や特別養子縁組などを含む社会的養護が弱いということです。私が初めてアメリカへ行った40年前、ホームステイした家の長男は黒人でした。両親含めその他の家族は全員白人なのに。そのことを思い出しながら、かけがえのない命が守られ、尊重される社会として成長していくことを諦めないようにしようと思いました。
園長:新井 純

 連日の異常な暑さに、酸欠の金魚のようにアプアプしている園長です。この暑さの一因に地球温暖化が挙げられていますが、猛暑対策にエアコンを使い、その交換熱がさらにヒートアイランド現象のようなものを生み出すというような負のスパイラルにはまり込んでいることを考えると、では私たちはどうすれば良いのでしょう?と頭を抱えてしまいます。地球のバランスって、本当に奇跡的なところで保たれているのかもしれないと改めて思うのでした。

 パリでオリンピックが開催されています。「平和の祭典」という別名もあるオリンピックですが、けっこうナショナリズム剥き出しで自国のチームや選手を応援し合うので、メダルの色や数について一喜一憂しながら観戦している方々も多いと想像します。かく言う私も、日本の選手が出場すれば応援したい気持ちになるものです。ここ数日は夜毎柔道の試合を観戦していましたが、なぜかつま先に力が入り、体を傾けたりねじったりして、あたかも自分が相手の攻撃から逃れようとしているか如き体勢になりながら観戦し、終わるとハアハア肩で息をしているのに気づき、ひとり苦笑いするのでした。

 今回の大会で個人的に気になっているのはX(旧ツイッター)やインスタグラムなどのSNSによる反応です。TV等を通して世界中で何億人もの人々が観戦していて、それだけの人が見ていれば様々な感想が生まれ、それが外に吐き出されていきます。現代社会はインターネットを通じて自分の思いを不特定多数に発信できますし、匿名性を利用して公には言いづらいと思われる意見も気軽に表明できてしまいます。それゆえ、攻撃的な意見や不適切だと思われる意見も多数目にするようになるのです。

 ミスをしたり負けた選手への攻撃などはその際たる例です。「帰ってくるな!」とか「相手国に行って代表になり、負けて自国にメダルをもたらせ」なんてものもあるとか。応援していた選手が負けたことを同じように悔しく思っている気持ちはあるのでしょうが、誰よりも悔しい思いをしているであろう選手を、どうして第三者が追い討ちを掛ける必要があるのでしょう。勝敗などの結果に関するものばかりでなく、敗戦後に泣きじゃくったことや、団体競技にベストを尽くしたいから個人種目を辞退したという決断への誹謗中傷などもあると知り、本当に残念な気持ちになりました。

 普段の暮らしの中で、私たちはそれぞれ様々な思いを抱きます。本当はその全てを周囲の皆が理解してくれるのが理想です。でも、現実はそうではなく、わかって欲しい思いを汲み取ってもらえないことも少なくありませんし、自分の判断や行動や言動には、自分なりの理由があるということをみんながわかってくれるものでもありません。でも、そういう時にこそ思い起こしたいのです、「周りの人たちも、わかって欲しい思いを抱いて日々を歩んでいる」ということをです。ほんの少し、相手の思いに寄り添い、想像してみるだけ、それだけのことなのです。
園長:新井 純

 今年も6月17日から1週間、バングラデシュに行ってまいりました。日本キリスト教保育所同盟が支援している就学前児童が通うプレスクールの視察と交流を兼ねた研修です。

 バングラデシュは、最近「アジア最貧国」を脱却し、発展途上国になったようです。確かに道路の整備は進んでいて、高速道路も機能してかなり便利になりました。首都ダッカ市内にはJICAが出資した「ダッカメトロ」という近代的な鉄道も走り始めました。もともと存在している外部からダッカに入ってくる鉄道は、屋根にまで人が群がるような凄まじい列車ですが、メトロは近代的な電車ですから乗客が屋根に登ることはありません。車内はエアコンが効いていて、自動改札まで導入されています。こうなると市民の足と言うより、アトラクション的な趣になります。だって、切符高いですから。

 急成長している様子は頼もしく思います。格差が広がっていく懸念は大いにありますが、着実に底上げされていっているように思いました。

 そうした変化の中で今回最も印象的だったのは、自立への意識改革です。実は、私たちの支援先からこれまでお付き合いのあった数名が姿を消しました。そのうちの一人から、別れの挨拶もしてないから会って話をしたいとの申し出があったので、訪問時に時間を作ってお会いし事情を聞くと、「事業を進めるためにはワイロなどが不可欠で、それがあればスムーズに事が運ぶ。しかし新理事長は、ワイロなどを排除しようという方針を打ち出したので、我々と意見が合わなくなった。そのせいで新規事業の認可が降りなくなったり、滞る。だから、意見が衝突した我々数名が辞めたのだ。」さもありなんと思いつつ、「今後のご活躍と、再就職先が早く見つかるよう祈っています」と言って別れました。

 私たちが支持するのは言うまでもなく新理事長による新体制です。確かに国や行政に意地悪をされれば、活動に支障をきたすでしょう。でも、これまで当たり前だとされてきたワイロという悪習を断ち切って、新しい道を切り開こうとしていることに驚きつつ、とても嬉しく思いました。たとえ茨の道だとしても、歩み続ければ前進するのです。その覚悟を持って、新しい地平を見つめようとする新理事長に心からエールを送るのでした。

 今回の現地視察には多忙を極める中、新理事長も同行し、多くの話し合いの時間を持ち、親交も深めました。これまで「支援してください」が口癖のようだった彼らが、「私たちはこのような計画や希望を持っているので、うまくいくようにお祈りください。」と言うよりになりました。相変わらず支援が必要なことに変わりはないし、言い方が変わっただけだと思われるかもしれませんが、自分たちが前を向いて歩こうとしていけば、支えてくれる人が現れるはずだ!という意識に変わってきたことは、本当に素晴らしい変化だと思いました。

 私たちも、多かれ少なかれ誰かからの助けや支えの中で生きています。そのことを忘れないで、身の回りの「支えて!」の声にもしっかり気づきたいと思うのでありました。 
園長:新井 純

 ゆりチーム(2歳児)が昨年から飼育し始めたメダカが卵を産みました。水草に見立てて沈めたスポンジに、透明な卵がキラキラ光って付いていているのを保育士が見つけました。卵は丁寧に剥がし取り、別の水槽に移し、孵化を待っています。

 実はもっと早くから産卵していたようですが、気づかずにいました。メダカを譲ってくださった方から「もう卵産んでるやろ」と声を掛けられ、慌てて確認したところ卵が産み付けられていたそうです。卵を別の水槽に移さねばならないのは、そうしないと孵化した直後に親魚に食べられてしまうからです。魚の中にも、孵化するまで親魚が卵を守ったり、孵化した仔魚を身体にくっつけたり口の中に入れたりして育てる種類もいますが、大抵は産みっぱなしです。そして、孵化した瞬間、仔魚は親魚を含む他の魚や生物の餌となってしまいます。卵の段階から食べられてしまうこともあります。まさにワイルドライフです。

 ほとんどの野生動物は、生まれた瞬間から命の危険にさらされるため、自分で自分の命を守るための能力が備わっています。例えば、キリンやシマウマは産み落とされた直後から立ちあがろうとし、おおむね30分後には歩き始めます。そうしないと、外敵の多いサバンナでは生き残れないからです。ただし、そのためには十分に生育した状態で生まれてこなければなりません。つまり、そのくらいの能力を備えるまで母体に留まるわけです。ゾウなどは2年もの間お母さんのお腹にいることが知られています。妊娠期間が2年というのは長いですね。

 ところで、私たち人間の妊娠期間はと言うと、「十月十日」です。他の動物たちと同じように考えるなら、自分の足で立ち上がるくらいまで成長してから産まれてくるとすると、ゾウと同じ約2年間はお腹にいた方が良さそうなのに、その半分の期間で生まれ出ます。なぜなのでしょう。

 それは、一説によると脳が発達したからなのだそうです。脳がそれ以上発達すると母体の産道を通れなくなるので、身体能力としては未発達の状態だけれども、産み出されなければならないというのです。

 身体的には未熟なので、かなり手厚い保護が必要です。ちょっとでも手を抜けば瞬く間に命の危険にさらされます。病気にもかかりやすいので、その対処も求められますし、食べ物だってミルクから離乳食、そして通常の食事へと段階を踏んで食べられるようにしてあげなければなりません。これって、本当に大変なことですね!

 この大変な乳児期の保育の多くの部分をママが担っています。やはり自らのお腹の中にもう一つの新しい命が宿り出産するという奇跡を体験するからこそ成せることなのかもしれません。でも、最近はパパも積極的に保育に参加するご家庭が増えました。「ママは子を宿した時からママだけど、パパは子どもが生まれてからパパになる」と聞いたことがあります。我が身を振り返れば、そうかもなと思います。それでもいいんです。パパもどんどん成長します。なんせ伸びしろしかないんですからね。
園長:新井 純

数年前、後輩牧師(以下パパ)が里親のホームを開設しました。はじめは自宅で1人2人を預かっていましたが、要望が多かったので思い切ってホームを作りました。何らかの事情によって親が育児できない、もしくは育児を放棄された子どもたちがそのホームに預けられました。

パパの方針は、決して「叱らないこと」でした。なぜなら、ホームに預けられる子の多くは、虐待やネグレクト(育児放棄)によって必要以上に怒られたり暴力を振るわれたりし続け、自己肯定感が極めて弱くなりがちだからです。

子どもは「育てられたように子育てをする」と教えられたことがあります。つまり、多くの場合は自分の親を真似て子育てをするということです。そして、子育てばかりでなく、対人関係などを含め、社会生活の参考にしていくのが自分の親ということです。最も身近で見ている大人なのですから、当然です。だとすると、子どもがいつも怒られたり殴られたりしていたら、自分も不満を抱いたり相手に何かを伝える時に、感情に任せて怒ったり暴力を振るっても良いと思い込んでしまいます。でも、それは間違いです。少なくとも、簡単に暴力に訴えることは避けなければなりません。そこで、パパは「決して叱らない」ことを心に決めたのでした。

もちろん、何でも好き放題にさせたわけではありません。悪いことをしたら、それはしてはいけないこと、なぜしてはいけないのかを丁寧にさとしました。万引きを繰り返す子どもには、何度も一緒にお店に謝りに行ったそうですが、そういう場合でも叱ったり見放したりすることはしませんでした。

ある日、引き受け手がおらず転々としていた女子高生をパパは引き受けることにしました。その子が問題行動を起こしたので、パパは「何が良くて何が悪いのか、お部屋できちんと考えなさい」とさとしました。ところが、その子は部屋に戻るなり児童相談所に電話し「暴力を受けて部屋に監禁されている」と言ったので大騒ぎになりました。

長い調査の結果、これは少女の狂言で、パパには責任がないことが明らかになりました。しかし、行政は「もう子どもは預けない」と信じられないような決定を下し、パパはホームを続けられなくなりました。他の里親さんのところに散り散りにされた子どもたちは、大いに不安になりました。他の里親さんたちもとても良い方々でしたが、子どもたちは「いつパパのところに帰れるの?」と半年以上経っても尋ねたそうです。

パパは他の事業を興し、その利益を用いて「子ども食堂」を開催しました。キッチンカーを複数誘致し、ちょっとしたお祭りのように盛り上がりました。つい先日4月27日のことです。

パパには夢があります。行き場を失った子どもや大人が集い、みんなが笑顔で暮らせる牧場を作ること。この調子だと、夢が現実になるのもそう遠くはなさそうです。  園長:新井 純

新年度を迎えました。在園児はすでに新チームでの保育が始まっており、今日からは新入園児を加えて本格始動です。この1年も子どもたちが健やかに成長することを祈り願いいつつ、共に歩んでまいります。どうぞよろしくお願いいたします。

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 先日卒園式が行われました。昨年度は26名の園児が卒園していきました。長い子ではこの園で6年間過ごしたので、その成長を見守ってきた職員たちも感慨深くこの式に列席しました。式の中で「思い出のアルバム」というプログラムがあります。1年の歩みを振り返り、特に思い出として残っていることを一人ひとりが発表し、その季節に歌っていた歌を皆で歌うのです。春の山登り、夏のプール、秋のあそぼう会、クリスマスページェンと、冬の餅つき郵便屋さんごっこ等々、あんなこともあったね、こんなこともあったね、と思い出しながら、子どもたちの言葉に耳を傾けます。

今年も思い出のアルバムの発表があったのですが、一人の子がこのような発表をしました。「平和の話をたくさん聞きました。広島の原爆の話を聴いた時は怖かったです。ぼくは戦争が嫌いです。だから、大きくなったら戦争を止めに行きます。」驚きました。

 私たちの園では、夏に戦争の愚かさや悲惨さ、そして平和の大切さやそれを守ろうとする努力の尊さを一緒に考え、学びます。8月初めには「平和の集い」というものを開催し、給食もあえて粗食にするなどの疑似体験もしています。その中で、園長が広島在任時に出会った被爆者との交わりや、その方から繰り返し聞かせていただいた被爆時の体験談などを子どこたちにも語り聞かせています。そうした取り組みを続けてきた中で、「戦争が嫌いだから、止めに行く」という発想が出てきたことにとても驚きつつ、感動しました。

 正確に言えば、戦争は良くないとか、戦争がなくなれば良いという言葉は子どもたちの口からもよく出てきます。しかし、具合的に「止めに行く」と言った子に出会ったのは初めてでした。

 同時に、はて?この子はどうやって戦争を止めると考えているのだろう?と思い巡らせました。そのことを担任に尋ねてみると、その子は自衛隊の隊員のような絵を描いていたそうです。なるほど、そういうことか。

 厳密に言えば、防衛のためとは言え武器を持って戦うことになれば、相手を傷つけ、あるいは自分が傷つけられることになりますから、戦うことを容認しないキリストの教えには添いません。でも、今ここでそれを言うのは野暮だと感じました。戦争によって傷つき傷つけられている多くの人々のことに思いを馳せ、この苦しみや悲しみから一刻も早く人々を解放するために、自分がその渦中に飛び込むのだという心意気は、純粋に平和を願うものだと思ったからです。もちろん、太平洋戦争の時の特攻隊が、国や家族を守るためだったということで美化されてしまえば、結局またその惨劇を繰り返すことことになります。ですから、この子の「戦争を止めたい」と言う思いが、大きくなった時にどんな形で本当の平和をもたらすものとなるのかに期待したいと思いました。今の私たちには想像もつかないような手段で平和を実現するかもしれない、子どもたちの未来にそんな希望を見出すのでした。 
 園長:新井 純

園医の森先生がたくさんの絵本をプレゼントしてくださいました。その中に「からすのせっけん」という作品がありました。

 先日、幼児のクラスで保育士がこの本の読み聞かせをしたところ、困惑する事態に陥ったようです。というのは、子どもたちが絵本に出てくる「固形石けん」というものを知らなかったからです。固形石けんそのものを知らないので、使い方はもちろん、石けんが使っていくうちに小さくなっていくという物語の面白さそのものが伝わらなかったらしく、自分の中での当たり前が当たり前ではなかったことに保育士はジェネレーションギャップを感じ、動揺したのでした。

 言うまでもなく、最近は液体石けんが主流で、しかも手のひらに出した時点で既に泡になっています。石けんは泡立ててから洗うことで汚れやばい菌をうまく浮き上がらせて流すので、最初から泡の状態で出てくるのはとても便利なだけでなく、衛生的にも効果の高い改良です。

 一方で、泡になるボトルしか知らなかったらどうなるかを想像してみるのです。同じ液体石けんでも液のまま出てきたら、それを上手に泡立てなければなりません。ましてや固形石けんなら、まず最初に手と一緒に石けんも濡らし、これをこすって石けんを手のひらに移していかなければなりません。ちょっと経験すればできるようになるとは思いますが、慣れないとハードルは高いかもしれません。実際、担任は家から固形石けんを持ってきて、子どもたちに使わせてみました。すると、案の定泡立てることが出来なかったそうです。そこで画用紙を固形石けんの大きさに切り、子どもたちに固形石けんの使い方を教え、石けんが小さくなっていく様子を毎日観察するようにしたのでした。

 仕様が変わったために使い方がわからなくなっていく例は他にもたくさんあるでしょうし、今後ますます増えていくでしょう。それは決して悪い事ではないし、不都合だと決めつけるものでもありません。例えば、火打ち石で火を起こしていたのが、マッチを擦るだけで良くなり、次にライターに変化していき、さらにはコンロなんかだとつまみをひねるだけで着火するようになりました。IHコンロなんて、火さえないのに煮炊きが出来るのですから不思議です。それが当たり前になった世の中を生きていると、いろいろな物や事が便利になり、それだけ生活も快適になっていくのですから、良い事づくめのようにも感じます。

 ただ、ふとしたことで「便利」じゃなくなることもあります。自然災害はその最たる例です。「便利」が一瞬にして役に立たなくなるのです。その時、「便利」に頼り切っていたら、途方に暮れるだけです。

 ですから、便利の中に埋もれながらも、時には不自由さを味わったり、経験することも必要なことではあります。そこには生きる力を養う知恵が満ち溢れていて、便利を作り出すプロセスを垣間見ることもできるでしょう。つまり、不便で不自由なのに、豊かな経験を生み出すのです。 

不自由を経験し、もっと便利に!と思った子どものたちの中から、ロケットを飛ばす天才が生まれるかもしれません。

卒園生、卒園おめでとう。
在園生、進級おめでとう。
園長:新井 純

大きくひび割れたアスファルトを雪が覆い、その傷跡をわかりにくくしていきます。その横を車列がそろりそろりと進んでいくのですが、所々崩れてしまったためか、片側1車線ずつの道路は一方通行にされ、時々田んぼの中の細い迂回路に誘導され、雪で隠された段差があると車体が大きくバウンドしました。復路(帰るための一方通行)への分岐点は、峠が路面凍結でスリップしてしまうために大渋滞が発生し、それが分岐から溢れてきたため、往路も復路も動かなくなりました。「これはマズいな。これ以上進んだら、脱出に相当な時間が掛かって、下手すりゃ今夜は車中だね。まあ、止まってるのは嫌だから、進みましょうかね」そう言いながら、動かなくなった車列の横をすり抜けて前進します。分岐から伸びる反対車線の車列は数キロ続き、「こりゃ、ほんまに帰れんな」とつぶやきながら進みました。

 輪島市街地に入ると、景色は一気に大震災被災地の様相を呈します。倒壊した家屋、斜めに倒れたまま光る信号機、道路にまで崩れてきている店舗、崖崩れに巻き込まれたらしき新しい家屋もあります。横倒しになったビルは、テレビでよく映し出されたものだとすぐわかりました。

 そのビルのすぐ近くに、日本キリスト教団輪島教会がありました。2007年の能登半島地震の時に訪問した時は持ち堪えていましたが、今回は破壊されてしまいました。その壊れ方から、あの地震がエネルギーの凄まじさがわかりました。付近の家や商店もバタバタ倒れ、1ブロック先には爆撃でも受けたかのように焼け野原になった朝市がありました。雪のせいもあるのか、人の気配がなく、ボランティアか調査のためだろう何かを記録している人を見かけるくらいです。誰も声を発することなく、辺りも車内も、動いたらピキッと音がするかと思うほど空気は張り詰め、どこまでも透明でした。

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 被災地にある日本キリスト教保育所同盟の加盟園を問安する目的で能登半島地震被災地を訪れました。輪島に加盟園はありませんが、七尾を訪ねた際に「奥能登にも入れるからぜひ行ってみて」と言われ、結局輪島まで行くことになったのでした。

 地震には「通り道」のようなものがあり、震源から近いから被害が大きいとか、遠いから被害がないというわけではありません。断層や地盤など、様々な要因で被災状況は変わります。ご存知の方もおられるかと思いますが、通り1本挟んで片側の被害はひどく、反対側はほとんど被害がないということもあるくらいです。

 そういうことを含め、個々の被災状況はやはり現地を訪ねなければわかりません。マスコミはより画になるものや、悲劇、感動ものだけを拾い上げて報道するので、支援に必要な情報はなかなか入手できません。なので、教会関係や保育園関係では、こういう時に動ける人やグループが現地に入って、その情報を共有しています。

 これまで十以上の被災地を訪ねてきましたが、このたび改めて私たちの園の自然災害時の対応マニュアルの充実を図ろうと思い立ち、準備を始めました。これまで見聞きしたことを生かし、整理しておくことも必要だなと考えたからです。もっとも、無駄な努力になれば良いとも思いつつ。
園長:新井 純

新年おめでとうございます。新しい年も皆様の歩みの上に神様の恵みと祝福をお祈りします。

 愛媛県でこども食堂の活動をしている牧師仲間がいます。教会の中で、地域のために何かできることはないかと長年話し合いを続け、こども食堂を行うことになりました。初めて開催する日はドキドキしたそうですが、意外や意外、準備した50食が完売しました。その後は、毎月1回開店し、毎回大賑わいしています。

 ところが、こども食堂をやってみて新たにわかったことがありました。それは、経済的に厳しい状況に置かれたり、居場所を求めている親子が思いのほか多いということでした。そしてその多くがシングルさんと呼ばれる母子家庭、父子家庭でした。そこで、こども食堂が評判になったこともあり、たくさんの食料品の寄付が集まるようになったので、期限切れ間近の食品等を配るフードパントリーの活動も始めました。こちらは週に3日くらい配るそうですが、毎回盛況だそうです。

 日本の子どもの貧困率は1/6とも言われます。「え?そんなに?」と思う数字ですが、こども食堂のお話を伺っていると、あながち間違ってはいないようです。一般的な生活レベルよりも著しく低い経済状況の中で、何とか踏ん張っているという家庭がそんなにあるなら、私たちの周り、あるいはすぐ隣にもそうした家庭があると考えねばなりません。しかも、その中には明日食べる物がないというくらい極度の貧困に苦しんでいる家庭さえあるというのです。

 ある日の夕方、こども食堂をしている教会に、こども食堂に行きたいと問い合わせがありました。食堂は月に1回だから今日は営業していないこと、でも食べるものを分けてあげることはできるから、取りに来ると良いですよ、と教えてあげました。すると電話の相手は「じゃあ持って来てください。そっちに行く電車賃がないんです。」とのこと。そこで、車で隣町のそのお宅に食料を届けに行きました。

 到着すると、周りと違いその家だけは真っ暗。玄関を開けると、中からお母さんと二人のお子さんが出て来ました。電気は止められていました。部屋の中を覗くと、ストーブも無ければお布団もありません。段ボールにくるまって暖を取っているというではありませんか。

 牧師は慌てて教会に戻り、ストーブとお布団、そして何着かの防寒着などを持って再度その家を訪れたのでした。

 「助けて」そのひと言を発するのは、案外難しいのかもしれません。仕事を含め日常生活の中で、ちょっと忙しいから助けて、とか、一人では無理だから助けて、という声をあげることも、人によって難しく感じることがあるくらいです。まして、生活に困窮しているから助けて、という声を今の日本では上げづらいのかもしれません。

でも、事情は何であれ、状況がどうあれ、必要な時には「助けて」と声を上げられ、その声を聞いた人の中から、ちゃんと助け手を差し伸べる人が現れる、そんな社会であって欲しいと思いますし、私自身がその一員でありたいとの思いを新たにしました。 
 園長:新井 純


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