沖縄県の本島中部、本部港からフェリーで30分ほどのところに伊江島(いえじま)という小さな島があります。周囲約22キロ、人口4500人の島です。島のほぼ中央にタッチューと呼ばれる城山(グスクヤマ)がピョコンと突き出ている姿が特徴的で、有名な美ら海水族館(ちゅらうみ)に行ったことがある方なら、海を隔てた正面にある島だと言えば思い出せるかもしれません。そこに阿波根昌鴻(あわごんしょうこう)さんという平和運動をした方がいました。阿波根さんは、元々は農夫でした。その彼が平和運動を始めたのは、生きる術である農業を営むための農地を米軍に奪われてしまったので、それを返して欲しいと願ったからです。

太平洋戦争末期の1945年4月1日、米軍は沖縄本島に上陸し熾烈な陸上戦が始まります。米軍は東洋一と言われた長い滑走路を持つ基地があった伊江島にも上陸、いとも簡単に占拠します。本島は南北に分断され、北側にいた人たちは北端へ、南側にいた人たちは南部に逃げて行きます。南部の撤退戦は激烈を極め、兵士のみならず9万4千人もの民間人も犠牲になりました。余談ですが、米軍の上陸から1週間後、日本軍は嘉数高台(かかずたかだい)という丘で待ち伏せをし、米軍を迎え撃ちました。16日間にわたる攻防の末、日本軍は多大な犠牲を出しつつ撤退を余儀なくされますが、この時に嘉数高台を守っていたのが地元沖縄に加え、京都、北海道から派兵された部隊だったそうです。なので、京都の慰霊碑は今も嘉数にあります。しかも、沖縄にある47都道府県の慰霊碑の中で「再び戦争の悲しみが繰り返されることのないよう」にとの思いを刻んでいるのは、京都の塔だけだそうです。

 さて、伊江島の阿波根さんは、敗戦後も米軍に奪われた土地を返してもらえず、むしろ島のほとんどが米軍に接収されてしまったために農業を営むことができず、仲間たちと共に返還運動を始めました。その際、相手を罵ったり攻撃的になれば、相手も力づくで向かってくる。相手が鬼畜米英なら、我々は人間になろう。と非暴力での訴えを続けました。それはまさに大きな忍耐を必要とする自分自身との闘いです。でも、その精神はのちの平和運動に大きな影響を及ぼし、アメリカの黒人解放運動の指導者の一人「I have a dream.」で有名なマーティン・ルーサー・キングJrにも影響を与えたと言われています。阿波根さんたちは粘り強く交渉を繰り返し、現時点では島の65%の土地を返してもらいました。でも、まだ35%は奪われたままです。沖縄戦はまだ終わっていないのです。

 今から30年以上前、私がまだ大学院生だった頃に初めて伊江島を訪れた際、まだご存命だった阿波根さんから直接お話を聴くことができました。その時、主要産物の一つである菊の栽培について、最近周囲の農家は成長を早めるために夜でも蛍光灯をつけて明るくしていることを紹介し、彼はこう言ったのです。「人間はとうとう花までだますようになってしまった。」

 私の平和は誰かの涙の上に成立しているのではないだろうか、効率だけを求める発想の陰で失っているものはないだろうか、そんなことを考えさせられたのでした。 
 園長:新井 純


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