数日前、知床で沈没したKAZUⅠという観光船が引き上げられました。事故原因究明や遺族感情を考慮した引き上げだったわけですが、小さいとは言え沈没船を深い海から引き上げるのは簡単なことではありませんでした。この作業を依頼された日本サルヴェージという会社は、西太平洋エリアでは最も優れたサルベージ会社だそうで、卓越した技術と豊富な経験がこの作業を可能にしたのでしょう。

 ところが、完全に引き上げる前には、せっかく引き上げかけた沈没船を、さらに深い海に落下させるという事故が起きました。船を吊り下げていたロープの一部が切れて沈没船がずり落ちたということでした。

 このことを巡り、厳しい意見が飛び交いました。ネットでは、「日本のサルベージ技術にガッカリした」などのような発言も見られましたし、国会でもなぜこのようなことが起きたのかと追求する発言があったそうです。

 こういう発言を見たり聞いたりすると、果たしてこの発言者たちの正義ってどこから来るの?と思わずにいられなくなります。沈没船を落下させたのは技術的な問題だったのか、想定外ということを含む不可抗力だったのか、はたまた単純なミスだったのか、それは専門家が見極めるでしょう。ただ、少なくとも繰り返し報道されていたように、極めて難しい作業であったことは容易に想像できます。それでも事故は起きるのです。

 なのに、事故が起きたら、途端に正義感に満ち溢れた人たちがそれを振り回して非難を始めます。今回のことばかりでなく、日常的に発生する事件や事故について、にわか評論家となった人々が自分の正義を盾に誰かを攻撃します。その正義、どうしてあなたは振りかざせるの?

 残念ながら、私たちは自分たちが思う正義が正しいと勘違いします。でも、必ずしも私が思う正義が正しいわけではありません。私は所詮私が経験したり習得したりした知恵や知識、技術や経験の範囲でしか判断し得ないからです。例えば、私が何かを非難したとして、その指摘が間違いではなかったとしても、その事件や事故の背景には、当人たちにしかわからない事情があるのかもしれないし、それを知ったら私も「あ〜、それは仕方ないね」と意見を180度変えるかもしれない可能性さえあるのです。でも、正義を振り回しているときには、それが大変な過ちであることに気づきもしません。だって、自分は正しいと思っているのですから。

 正義の刃は、人を傷つけます。グサグサ突き刺しまくって瀕死の重傷を負わせてなお、私は正しいと開き直るのが、正義の恐ろしさです。でも、覚えておかねばなりません、その刃はいつか自分にも向けられることを。大切なのは、想像力です。そして、思いやる心です。

 新型コロナ感染症が流行し出した2年前、世光保育園は報道で呼びかけられるよりずっと前から「感染者が出ても特定しようとせず、互いに思いやりを持ってください」と呼びかけてきました。なぜなら、私たちは、お互いを大事に思い合うことを大切にしたかったからです。思いやりを持てる子どもたちを育てたいからです。なぜなら、神様がそう望まれているからです。

園長:新井純


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