新年おめでとうございます。この1年も、皆さんの健康が守られ、心も身体も健やかに過ごせますようお祈りいたします。

 新型コロナ禍3年目に突入し、ついにオミクロン株による第6波の襲来がほぼ確実な状況ですが、当初から「パンデミック収束まで最低3年かかり、7回以上大波が来る」と言われていたので、専門家の予測はすごいなと感心しているところです。

この間にマスク着用はほぼ当然のようになり、むしろ若い世代ではマスクを外したがらなくなっている人たちも少なくないとか。感染予防というより、顔を隠せるからという理由だそうです。そう言えば、もうだいぶ前ですが、目元だけのメイクで様々な有名人に似せるという芸当で有名になった方がいました。職員に「なんて人だっけ?」と聞いたら「ざわちん!」と即答で返って来ました。あの方は、目元のメイクだけで勝負するため、口元はマスクで隠していましたね。

 得意な部分で勝負する、例えばざわちんさんのように、見栄えの良い部分を磨いて、さらに見栄えを良くするとか、パソコンの得意な人がプログラマーとして活躍するとか、駅伝チームの中でも上り坂に強い人がその能力を磨いて箱根駅伝の第5区(1日目最後の長い上り坂)を走るなど、自分の得意な部門や好きなことの能力を発揮できる場があれば、とても望ましいことです。

 なにせ、得意なことや好きなことの能力は伸ばしやすいです。だって「好き」なのですから。好きなことには、他のことより興味を持つものですから、続けたり努力することも苦にはなりません。私は「さかなクン」ほどではありませんが魚類が好きだったので、幼少の頃は毎日夕方6時から夕食が始まる7時まで、魚類図鑑を見るのが日課でした。当然、図鑑を丸ごと暗記するほどになります。「良く知ってるね」などと言われれば、得意顔になってますます熱が入るというものです。まさに「興味を持った時が教え時!」になるのです。

 では、不得手や苦手には目をつぶっていても良いか、という問題があります。目だけで勝負するから顔の下半分はマスクで隠す、これは一つのアイデアでした。ただそれは、様々な経験を経て来てから編み出された手段だったのだと思います。さまざまなことを経験したり、認識したり、自覚した上で、得意分野をより活かすための手法を見つけられたということではなかったかと。つまり、苦手だから嫌いだからという理由で、入り口の段階で切り捨ててしまっては、新しい可能性を潰してしまうかもしれないし、特に得意になるかもしれない芽を摘んでしまいかねません。見せたくないと思う部分をさっさと隠してしまっては、本当の良さを輝かせることができるのかどうか。だったら、苦手や嫌いも、ある程度はチャレンジを繰り返すことも大切だと思うのです。

 子どもに好きなこと、やりたいことをさせてあげることは、見ていて楽しいです。一方、苦手や嫌なことにも挑戦することを教えるのは、大人側にも努力が必要です。でも、苦手を克服したり、嫌なことが得意に変化するかもしれない可能性もあるのですから、好きことや、やりたいことをさせながらも、新しいことに挑戦する楽しさも教えてあげたいと思います。 

 園長:新井 純

 Go To Eatのチケット販売が再開されました。京都も10月に申し込みが終わり、抽選が行われました。そのような中、政府は年末の混雑を警戒し、各自治体にチケットの販売を延期するよう求めるという声明を出しました。その翌日、京都の抽選結果が発表され、チケットの販売が開始されました。「今さらやめられないから売っちゃえ!」だったのでしょうか。相変わらずのドタバタ具合に失笑しました。

 長い緊急事態宣言が解かれ、飲食店の規制も緩和された時、夜の街には活気が戻ったかに見えましたが、どうやら規制への反動だったらしく、その後再び静かになっていったいうニュースを観ました。「リベンジ飲み」だったんだそうです。忘年会や新年会で書き入れ時の年末年始なのに予約が極端に少なく、店内は少人数のグループばかり。どうやら、この1年半の間に、私たちの意識そのものが大きく変わり、大人数での飲食を敬遠するようになったのかもしれません。企画した時点で顰蹙(ひんしゅく)を買いそうですしね。

 でも、コロナ禍に乗じて人付き合いが極端に減って行くのだとしたら、それはそれで心配です。確かに人付き合いが苦手な方もいるし、必要以上に付き合いを強いられるのは苦痛です。でも、人間は本来群れを作り、社会を作って生きる生き物ですから、そこには助け合い、支え合いを含めた、コミュニケーションを心の糧にしている部分が多くあるはずなのです。それを削りすぎると、きっと私たちは心の健康を保てなくなるのではないでしょうか。

 イエス・キリストは、人々が避けるような病人や障がい者、罪人とされて差別されていた人々と積極的に交わりました。具体的に触れ合うことで、みんなが元気になっていったのです。

 触れ合うって大事ですね。コロナの治療法が見つかるまでは警戒を解くわけないはいきませんが、心まで離れ離れになってしまわないように、私は一人じゃないということを意識したいと思う今年のクリスマスです。  

園長:新井 純

 先日父を天国に送りました。88歳でした。私にとっては父であると同時に、牧師として、また保育園の園長としても先輩であり、手本であり、目標でもありました。寂しさはありますが、漫才コンビ「カミナリ」のマナブさんが、「死んだ時に悲しんで欲しくないんですよね。この人は良い人生だったよな、と言って欲しいんですよ」と言っていたのを思い出し、父もそういう人だったはずだと、感謝をもって送り出しました。

 親孝行という言葉があります。皆さんはこれをどう捉えているでしょうか。一般的には親への恩返しとして、老後の面倒を見ることであるとか、何か感謝の気持ちを表すことであるとか、そのように捉えている人が多いと思います。改めてネットで調べてみると、「親に真心をもってつかえ、大切にすること。親に孝行を尽くすさま」とありました。まさに、恩返しや感謝の気持ちを表すのは、親孝行そのものだということがわかりました。

また、親孝行として「食事に連れて行った」「食べ物や飲み物をプレゼントした」「旅行に行ってもらった」という声が多いという調査結果も紹介されていました。一方で、7割近くの人は、親孝行ができていない、あるいは十分ではないと感じているとのこと。「親孝行、したい時には親はなし」という言葉がよぎる結果となりました。

では、どこまで、何をすれば、親孝行できたと満足するのでしょうか。あるいは、親から受けてきたたくさんの愛に報いるためには、どうすれば良いのでしょうか。仮に、自分を育て上げるために掛かった費用を計算し、その分をお返ししようとしたら、とてもではありませんが十分に報いることができたと納得するのは難しいでしょう。だから、せめて食事や旅行に招待して、納得しようとしているのかもしれません。

でも、親の気持ちになって想像すると、子どもが何かをしてくれようとしている、その気持ちが何よりも嬉しいと思うのではないでしょうか。ご飯食べに行こうと連れ出された先が町の小さな食堂だろうが、温泉旅行に連れて行ってもらった宿が安宿だろうが、そうした気持ちを抱いてくれたということを喜ぶのだと思うのです。プレゼントを買えない子どもが「肩たたき券」を贈ってくれたら嬉しいですよね。園で一生懸命描いてきた似顔絵をプレゼントしてくれたら、嬉しいですよね。つまり、この世的な価値とは関係なく、その心、気持ちを喜び、受け止めるのです。

 そして、私が親孝行として最も重要だと思ってきたのは、私自身の人生をしっかり生きることです。もし、私が悩み多く、日々をため息ばかりで暮らしていたら、親としてそんな姿を見るのは辛いでしょう。それよりも、毎日をしっかり生きている姿を見られたら安心です。加えて、次の世代となる子どもたち(孫たち)をしっかり育てること、これもまた孝行だと思ってきました。言わば、親から託されたバトンを、しっかり次の世代に渡していくことは、確かに親孝行なのだと。

 だから、親孝行したい時には親はなし、などと嘆く必要はないと思ってきました。人生は決して楽な道ばかりではないし、子育ても然り。でも、迷いながら、悩みながらでも、与えられた人生をしっかり生き、子育てもやり遂げることが大切なのだと信じます。

園長:新井 純

  デジタル新聞で、とある障がい者のツイートが紹介されていました。記事は以下のような内容。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  特別支援学校と地域の小中学校の生徒が交流する制度があり、小学校の校長先生からこう言われた。「君がうちの生徒と交流してくれたら、学ぶことがたくさんあるんだよ。ふれあいを大切にしたいので、ぜひまた来てください。」
  自分は教材なのか?まるで触れ合い移動動物園じゃないか。話す機会が必要だと感じるなら、なぜ幼稚園や小学校から健常者と障がい者を分けた場所で教育するのか。大人の都合で分断しておいて、話す機会必要とか、意味がわからない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

  ドキッとしましたが、なるほどその通りだと思いました。

  幼い頃に障がい者が身近にいる生活をしていると、それは特別なことではなく、当たり前になると聞いたことがあります。確かに、私が子どもの頃、近所やクラスに知的能力障害の友だちが何人かいて、遊びであれ共同作業であれ、そうした友だちがグループの中には一定数いるのは当たり前で、よく一緒に遊んでいました。そういう時は複雑なルールのゲームができなかったり、あるいはすぐに飽きてしまって遊びが続かないなど、いわゆる健常児と遊ぶのとは違いましたが、だからと言って特にそういう友だちを避けたり、のけ者にすることはありませんでした。それが当たり前だと思っていたからです。

  滋賀県に止揚学園という障がい者施設があります。障がい者が生まれたことを隠すような時代に、そのような子を探しては招き、一人の「人間」としての尊厳を大切にする生活を共にすることを実現してきた施設です。設立者の福井達雨先生の御子息が、ある日学校で友だちから「お前の家に遊びに行くと、アホがうつるから行ったらあかんねんて」と言われたと、泣いて父親に訴えてきたことがあったそうです。子どもたちにとっては、施設の入所者はいつもそばにいる家族であり、友だちであって、決して遠ざけるべき存在だとは思っていなかったのです。

  ところが、自分と大きな違いがある人や環境に突然出会うと戸惑います。そして、場合によっては避けたり排除したりしようとします。どうしても避けたいと言うより、どう接すれば良いのかがわからないからかもしれません。例えば、自転車を倒して買い物袋をひっくり返してしまったおばあさんの手助けをするのは簡単ですが、白い杖を手にした視覚障害者が困っている時に、「どちらへ行きたいのですか?」と声を掛けることは、案外勇気のいることかもしれません。でも、一度経験すれば、そういった手助けもたやすくなるものです。

  そう、経験することなのです。一緒に過ごす、自分とはちょっと違う友だちがそばにいる、これだけで変わるのです。加えて、ちょっと違う友だちも、ちょっとの手助けで皆と変わらずいろんなことができるのだということを知るのです。

  パラリンピック出場選手がこんなことを言っていました。「共生社会とか多様性とか、そういう言葉を使わなくても良い時代が来るように」

園長:新井 純

 昨年はコロナのために中止となった甲子園での高校野球大会が、2年ぶりに開催されています。甲子園といえば高校野球(硬式)をしている生徒にとっては誰もが夢見る舞台であり、日々厳しい練習に取り組むモチベーションを維持する目標でもあります。高校球児のほとんどが甲子園のグランドに立つことを目指していると言っても過言ではないでしょう。それだけに、昨年の中止決定は、球児たちを大いに悲しませました。致し方ない判断だったとは思います。でも、それだけに今年は開催できるというだけで、球児たちのみならず、彼らのことを思う多くの人々をも安堵させたと思います。

 それと共に、今年は特別なことがありました。女子高校野球の決勝が甲子園で行われたのです。

 これまで甲子園のグランドに立つのは男子生徒に限られ、女子選手にとってそれは叶わぬ夢でした。男子野球部のマネージャーとしてでさえ、女子生徒であるだけでベンチ入りが出来ない時代が続きました。それが、1995年に女性の部長(教師)がベンチ入りしたのをきっかけに、1996年には女子生徒であっても記録員としてなら1名ベンチ入りできるようになりました。しかし、あくまでも「記録員」であるため、グランドに立つことはできません。地方大会で、とあるチームの女子マネージャーが伝令としてマウンドに駆け寄っただけでも、注意されたほどでした。

 流れが変わったのは2016年。甲子園でユニフォームを着た女子生徒が練習の際にノックの球出しを行い、注意されます。これが話題となり、世論を巻き込んだ議論に発展します。そして、翌年の2017年、選手と区別するためにユニフォームではなく学校指定のジャージなどを着用の上、人工芝の上だけなら女子生徒も練習に参加できることになりました。何故にユニフォームではいけないのかとか、何故に人工芝の上だけ?など、多くの疑問は残るものの、女人禁制だった甲子園のルールに、風穴が開いたのは確かでした。そして今夏、初めて決勝だけとは言え、女子高校野球の試合が甲子園で行われたのでした。

 試合の前のことです。神戸広陵高校の選手たちがベンチ前で円陣を組みました。自分たちを鼓舞するために組む円陣ですが、この時チームは自分たちだけで丸くなるのではなく、ベンチを囲むように半円になったのです。そして、ベンチ入りできなかったスタンドで応援する選手たちが、グランドに向かって半円を作ります。すると、グランドとスタンドを隔てるフェンスを挟んで、大きな円陣が出来たのです。

 「ベンチ入りできなかった選手の分まで頑張る!」そんなセリフは何度も聞いてきました。でも、スタンドにいる選手まで含めた円陣は、その想いを言葉ではなく、はっきりと心に見える形で表していました。

 キリストは、「隣人を自分のように愛しなさい」と教えられました。「あなたなら愛されたいと思うでしょ?私なら愛されたいと思うもの」という、誰もが思い当たることを、形に表そうねと促してくださったいるのです。これを私たちは、「思いやり」といいます。この思いやりが伝染していく先には、みんなの笑顔が溢れることをこのチームは教えてくれました。

園長:新井 純

世光保育園では、8月初めに「平和を考える集い」という日を設定しています。その日には、第二次世界大戦のこと、今も世界中のどこかで起きている戦争や紛争のこと、そしてそれらを通して平和であることの尊さやこれを守り、創り上げていくことの使命を、スライドショーや保育士の話を通して子どもたちと分かち合います。また、給食は「粗食の日」とし、ご飯に具無しの味噌汁、そしてきゅうりの塩揉み程度のおかずしかありません。戦時中や戦後数年間は、白いご飯さえ食べられない日々があったことを知るためです。

8月15日は第二次世界大戦(太平洋戦争)で日本が負けを認めた敗戦の日です。そのため、8月になると戦争に関するドキュメント番組や、戦争にまつわるさまざまなエピソードを元にした映画やドラマなどが製作され、放送されます。観てみて楽しいものではありませんから、敬遠されることも多いでしょうし、ドラマや映画にしても感動的なものに仕上げられてますから、ともすると戦争を美化してしまってはいないかと危惧する声も上がります。

例えば、岡田准一さんが主演した「永遠の0」という映画がありました。神風特攻隊という、爆弾を抱えたままの飛行機で相手の軍艦に突っ込んでいくという、凄まじい作戦が背景に取り上げられていました。岡田さんの名演もあったのでしょうが、鑑賞した人たちから、感動した!という声が多数聞かれました。

愛する人のため、家族のため、そして国のために我が身を顧みず、命をかけて戦うとなれば、それは尊いことであったし、誰かに何か言われるような筋合いのものではないでしょう。それ自体には最大限の敬意を表するのです。

一方で、だからと言って、そこに「尊い命」という犠牲があったことをうやむやにしてはなりません。国同士の喧嘩なのに、国を守るの当然だとか、いつの間にか大切な人を守るためという理由にすり替えられて、戦場に赴いた若者たちがいました。そして、生きて帰る可能性のない特攻という恐ろしい作戦が考え出され、それに志願し、実際に特攻した戦士たちがいたのです。

その思いは純粋でした。だから、そこを切り取れば美しいし、感動的です。でも、その思いを利用していた「偉い人たち」がいて、兵士の命を「部隊の数(損失)」としてしか見ていなかった幹部たちがいたことを知らねばなりません。

命は一人に一つだけ、一度失えば取り戻せないたった一つの宝です。沖縄では「ヌチドゥタカラ(命こそ宝)」という言葉をよく目にします。日本で唯一熾烈を極める残虐な陸上戦を経験したからこそ、命の大切さを思い、戦争によってこれが奪われることへの抵抗をどこよりもしているのです。

命こそ宝、この一点において、戦争に反対し、子どもたちの未来を守る責任があることを自覚したいと思います。戦争をしても良いように憲法を変えれば、戦争に行くのは子どもたちです。人生の先輩たちが守り通したものを、諦めて手放してはなりません。「それは平和ボケだ」と言われたら、こう諭します、「戦争の悲惨さを忘れて、再び戦火を交えようとすることこそ、平和ボケなのではありませんか」と。

園長:新井 純

 新型コロナに対するワクチン接種が急伸しかけたかと思ったら、ワクチン不足でブレーキがかかってしまいました。難しいものですね。

 京都市は保育園関係者も優先接種の対象としました。そりゃそうです、どんな時にも開所し続けろ!と命じてきたのですから。そこで、世光保育園も希望する職員には接種を開始しています。むろん、ワクチンの安全性が完全に保証されているわけではないので、あくまでも任意であり、個々人の意思を尊重しています。

 私は新型コロナが流行し出した1年前、これがもたらしたのは「分断」だと思いました。ここに来てワクチン接種を巡り再び分断が起こりつつあります。自分の命は自分で守るほかありませんし、接種してもしなくてもそれぞれにリスクはあるのですから、接種するかしないかは、よくよく考えて決めなければなりません。その決断について、第三者はとやかく言うべきでもありません。「一人ひとりを大事にする」とは、そういうことです。どのような経緯を辿ろうとも、この災禍が一日も早く収まるよう祈るものです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 アメリカ・メジャーリーグ(プロ野球)、アナハイム・エンジェルスの大谷翔平選手の活躍が注目され、日本でも連日のように報道されています。年に一度のオールスターゲームのファン投票では、指名打者部門でぶっちぎりの一番人気になっているそうです。野茂投手、イチロー選手、松井選手など、米国で活躍し人気になった選手たちは数多くいますが、今年の大谷選手の人気は桁違いに感じます。

 大谷選手が人気者になっている理由の一つに、彼の礼儀正しさや明るさ、優しさ、公正さなど、人柄の良さがあげられています。例えば、ミスジャッジが疑われるシーンでも、怒って抗議するのではなく軽くおどけて見せるとか、投手として出場して相手バッターにデッドボールを投げてしまった際も「すまんすまん!」というリアクションをしてみたりとか。先日は、グランドに落ちていたゴミをひょいと拾ってポケットに入れた様子をカメラが捉え、これを絶賛していました。

 確かに素晴らしい選手です。良さそうな人柄も顔の表情に表れていると思うほどです。だから、彼が称賛されると「本当に素晴らしい選手だな」と嬉しくなって見ていられます。

 でも、彼を絶賛するメジャーリーグのアナウンサーたちの声を聞きながら、ふと思ったのです「アメリカ人は、彼を絶賛するだけなの?」いや、正確にはアメリカ人ではなく、それを見ている私たちを含め、「みんなはどうなの?」ということです。

 相手にボールをぶつけたら、ゴメンと謝るのは当たり前。でも、プロ選手になると、そういうリスクも織り込み済みだし、強気を装わないといけないからと、謝りもしない。また、グランドのゴミを拾うのは整備係の役割であって、選手はプレーに集中すれば良いと言われればその通りだし、唾やガムを吐き捨てる選手もいる。なのに、大谷選手の行動を絶賛するということは、みんな大谷選手のようにする方が良いと思っているんですよね。つまり、みんなどうするのが良いのかを知っているということですよね。
園長:新井 純

緊急事態宣言延長が決まりました。テレビの情報番組で見たのですが、ステイホームや緊急事態宣言による感染防止効果は13〜16%程度だそうです。ただ、経済活動を完全ストップさせるロックダウンでさえ37%だと言うのですから、結局は集団免疫獲得までは終息しないということなのでしょうか。早く収まって欲しいと心から願います。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 イエス・キリストは、人との距離をグッと縮めた方でした。聖書にはイエス様がたくさんの病人や障がい者をいやした物語が記されていますが、その中からマタイによる福音書8章の二つの物語を紹介しましょう。

 一つ目は重い皮膚病を患っている人をいやした物語。重い皮膚病の患者がイエス様に向かって「主よ、御心ならば、私を清くすることがおできになります」と言いました。当時、重い皮膚病は罪を犯した報いであると信じられていたので、多くの人は律法という掟に従い、「罪びととは交わらない」ことにしていました。つまり、交流を避けていたのです。

 当然患者は孤立し、孤独にさいなまれます。ただでさえ病気で辛く苦しいのに、社会的にもみんなから距離を取られてしまうのは辛いことです。

 でも、イエス様はこの人の訴えを聞いて、すぐさまその人に触れながら「よろしい、清くなれ」とおっしゃいました。「触れる」ということがポイントです。皆が接触を避けていたのに、イエス様は躊躇なく触ったのです。その瞬間の患者の心境を想像するのですが、どれほど嬉しかったことでしょう。みんなが避けるのに、この方は触れてくれたのです。

 二つ目は、百人隊長の部下の話です。ローマの兵隊の隊長が、遠くにいる部下が病気で寝込んでいるとイエス様に話しました。イエス様は「じゃあ、行こう!」とおっしゃるのですが、百人隊長は「いえ、わざわざ行かなくても、ここでおっしゃってくだされば、それで事足ります。なぜなら、隊長が命じれば部下は動くように、あなたが命令すれば、悪霊は去っていくでしょう」と言ったのでした。

 これには、よくそこまで信じてくれたとイエス様も感心しました。そして、フィジカルディスタンス(物理的距離)は取られたままですが、信頼の元で心の距離はグッと縮められました。

 最初の物語は、具体的に触れ合うことで、見た目を含む距離を縮めましたが、実はそれだけでなく、病気のゆえに罪びととされ、社会から疎外されていた人と触れ合うことで、精神的にも、社会的にもその距離は縮められたのです。つまり、イエス様ご自身はもちろん、患者の心の中にも「私と触れ合ってくれる人がいる!」という喜びが満ちていったのです。

 それだけではありません。周囲にいた人たちも「触れ合ってもいいんだ!」という気づきが与えられたでしょう。そう、つまらない偏見で仲間外れにしていたことの愚かさに気づく機会が与えられたのです。

 距離を空けることは、感染予防として大切です。でも、知らぬ間に心の距離まで空けないよう、気をつけたいものです。
園長:新井 純
 三たび緊急事態宣言が出されました。昨年に引き続きゴールデンウィークの楽しみがなくなってしまったという方々もおられましょう。新型コロナ騒動は簡単に収まるようなものではないと承知していますが、飲食業界等を中心に「我慢にも限界がある」という声を何度も聞くと、もう少しまともな対策はなかったのかなと思わずにいられなくなります。せめて、政治家の皆さんには、間違っても政治資金パーティーなど開いて「制限の範囲内だ」などと開き直り、我慢している国民を苛立たせるようなことのないよう、模範的行動を取って欲しいと願います。

 新約聖書の中にマタイによる福音書という書物があります。そこにこんなことが書いてあります。「人を裁くな。あなた方も裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。」

 解説の必要はないかもしれませんが、自分のことを棚に上げて、隣人の失敗や至らなさについて裁くのはよろしくないという内容です。なぜなら、あなたにも失敗はあるし、至らないこともあって、隣人を裁くなら、それはそのまま自分にも当てはまるのだから、あなたも裁かれますよということです。

 隣人の失敗を指摘することが悪いと言う意味ではありません。また、違反や罪を見逃さねばならないのか、ということでもありません。失敗や至らない点を指摘する時、それが建設的意見、すなわちその人が成長できるとか、意欲的に改善に取り組めるような仕方なら、大いに提案するべきでしょう。違反や罪に対しては、私たちは誰もが社会的責任を負っているのですから、違反や罪にはしかるべき償いが必要ですし、被害者が出ないようにするためにも、本人の省みが求められるべきであって、そのためには裁かれることも必要です。ただ、それらを個人的に行ったり、感情に任せて行うことが戒められています。先にも書いたように、人間は基本的には利己的で、自分のことは棚に上げて、つい感情で隣人を裁いてしまうからです。そう、緊急事態宣言だから出歩くな、とか、マスク警察のように。

 聖書は、あなたは自分の目に丸太が入っているのに、隣人の目にあるおがくずを取らせて欲しいと言えないでしょ?と書いています。目の中に丸太が入るなんて、非現実的だなと思っていましたが、それほどまでに自分のことは気づかないものなのだと思えば、なるほどそういうところはあるなと思わされます。自分の至らない点は過小評価して「失敗したけど大したことない」と思いたくなるし、なのに隣人のミスはガッツリ指摘したくなるのは、こういうことなのです。

 さらに、相手の目にあるおがくずとは、もしかしたら自分の目に入った丸太が相手の目に映っているものなのかもしれないと考えるとどうでしょう。これだと、指摘したくなる相手の欠点や罪が、実は自分に大きな責任があったかもしれないというがわかってきます。

 大事なのは、自分が完璧ではないということに「気付く」ことです。隣人を責める前に、自分を省みることです。子どもも同じ。できなくて当たり前、それを上手に引き上げるのが、大人の役割なのです。
園長:新井 純

 新しい年度のスタートです。昨年に引き続き、新型コロナ禍によって従来通りの保育とはいかないことが予想されますが、出来ることを探しながら、元気に楽しく過ごしたいと思います。

 ご存知の方もおられましょうが、イエス・キリストには12人の弟子がいました。その中に、ペトロという漁師がいました。彼は最初に召し出された弟子で、最も有名だと言っても良いでしょう。だから、さぞ立派な人物だったのだろうと思いきやさにあらず。実は「やっちまった!」ということが誰よりも多い弟子でした。実に、イエスさまが十字架につけられる直前にも、そんな出来事があったのです。

 ダヴィンチの絵でも有名な最後の晩餐の時でした。イエスさまは、ご自分に災難が降りかかり、そのために弟子たちがバラバラにされてしまうと預言されました。それを聞いたペトロは「たとえ、みんながバラバラにされても、私はあなたについて行きます!」と言いました。するとイエスさまは「あなたは今夜、鶏が2度鳴く前に、3度私を知らないと言う」と、ペトロも他の弟子たちと同じように、イエスさまから離れていくと預言したので、ペトロは「たとえご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と力一杯宣言しました。

 その夜、イエスさまは別の弟子の裏切りによって捕まってしまい、敵対勢力の本陣に連れて行かれました。ペトロはイエスさまのことが心配で、こっそり後について行ったようです

 大祭司の邸宅の庭で焚き火をしている人たちの輪に紛れ込んだペトロは、そこで様子を伺っていました。ところが、女中の一人が「あなたはあの人の仲間だ」と言い出したのです。「そんな人は知らない」としらばっくれたペトロは、そこを抜け出そうと出口に向かいました。その時鶏が鳴きました。別の人が「やはりお前はあの人の仲間だ」と言うので、「知らないって言ってるだろ!」と反論したペトロ。「いや、お前が一緒にいるところを見た」と言われ、ついにはイエスさまに対して呪いの言葉を使ってまで「知らない」と全力で否定したのでした。その瞬間に、また鶏が鳴きました。ペトロは、「鶏が2度鳴く前に、3度私を知らないというだろう」というイエスさまの言葉を思い出し、大声をあげて泣いたのでした。

 死んでもお供します!とあれだけ力強く誓ったのに、いざとなったらやっぱりダメでした。イエスさまの一番弟子でさえ、命が脅かされる危機の恐怖には耐えられませんでした。でも、それが人間の姿なのです。どんなに固い意志を持とうと、どんなに強がろうと、想定外の大波の前では、私たちは所詮翻弄される木の葉のようなものになってしまいます。そう、私たちは弱い存在なのです。でも、そんな私たちのことを神さまはご存知です。そして、弱いから見捨てるのではなく、弱いからこそ支えてくださるのです。

 子育ては困難の連続ですが、支えてくださる仲間が必ずいて、そこには全てをご存知の神さまが必ず一緒にいてくださいます。その力を感じる時、私たちは弱くてもしっかり立つことができるし、前を向いて歩き出す力を得るのです。弱くたっていいんです。

園長:新井 純


pagetop