世光保育園では、8月初めに「平和を考える集い」という日を設定しています。その日には、第二次世界大戦のこと、今も世界中のどこかで起きている戦争や紛争のこと、そしてそれらを通して平和であることの尊さやこれを守り、創り上げていくことの使命を、スライドショーや保育士の話を通して子どもたちと分かち合います。また、給食は「粗食の日」とし、ご飯に具無しの味噌汁、そしてきゅうりの塩揉み程度のおかずしかありません。戦時中や戦後数年間は、白いご飯さえ食べられない日々があったことを知るためです。

8月15日は第二次世界大戦(太平洋戦争)で日本が負けを認めた敗戦の日です。そのため、8月になると戦争に関するドキュメント番組や、戦争にまつわるさまざまなエピソードを元にした映画やドラマなどが製作され、放送されます。観てみて楽しいものではありませんから、敬遠されることも多いでしょうし、ドラマや映画にしても感動的なものに仕上げられてますから、ともすると戦争を美化してしまってはいないかと危惧する声も上がります。

例えば、岡田准一さんが主演した「永遠の0」という映画がありました。神風特攻隊という、爆弾を抱えたままの飛行機で相手の軍艦に突っ込んでいくという、凄まじい作戦が背景に取り上げられていました。岡田さんの名演もあったのでしょうが、鑑賞した人たちから、感動した!という声が多数聞かれました。

愛する人のため、家族のため、そして国のために我が身を顧みず、命をかけて戦うとなれば、それは尊いことであったし、誰かに何か言われるような筋合いのものではないでしょう。それ自体には最大限の敬意を表するのです。

一方で、だからと言って、そこに「尊い命」という犠牲があったことをうやむやにしてはなりません。国同士の喧嘩なのに、国を守るの当然だとか、いつの間にか大切な人を守るためという理由にすり替えられて、戦場に赴いた若者たちがいました。そして、生きて帰る可能性のない特攻という恐ろしい作戦が考え出され、それに志願し、実際に特攻した戦士たちがいたのです。

その思いは純粋でした。だから、そこを切り取れば美しいし、感動的です。でも、その思いを利用していた「偉い人たち」がいて、兵士の命を「部隊の数(損失)」としてしか見ていなかった幹部たちがいたことを知らねばなりません。

命は一人に一つだけ、一度失えば取り戻せないたった一つの宝です。沖縄では「ヌチドゥタカラ(命こそ宝)」という言葉をよく目にします。日本で唯一熾烈を極める残虐な陸上戦を経験したからこそ、命の大切さを思い、戦争によってこれが奪われることへの抵抗をどこよりもしているのです。

命こそ宝、この一点において、戦争に反対し、子どもたちの未来を守る責任があることを自覚したいと思います。戦争をしても良いように憲法を変えれば、戦争に行くのは子どもたちです。人生の先輩たちが守り通したものを、諦めて手放してはなりません。「それは平和ボケだ」と言われたら、こう諭します、「戦争の悲惨さを忘れて、再び戦火を交えようとすることこそ、平和ボケなのではありませんか」と。

園長:新井 純

 新型コロナに対するワクチン接種が急伸しかけたかと思ったら、ワクチン不足でブレーキがかかってしまいました。難しいものですね。

 京都市は保育園関係者も優先接種の対象としました。そりゃそうです、どんな時にも開所し続けろ!と命じてきたのですから。そこで、世光保育園も希望する職員には接種を開始しています。むろん、ワクチンの安全性が完全に保証されているわけではないので、あくまでも任意であり、個々人の意思を尊重しています。

 私は新型コロナが流行し出した1年前、これがもたらしたのは「分断」だと思いました。ここに来てワクチン接種を巡り再び分断が起こりつつあります。自分の命は自分で守るほかありませんし、接種してもしなくてもそれぞれにリスクはあるのですから、接種するかしないかは、よくよく考えて決めなければなりません。その決断について、第三者はとやかく言うべきでもありません。「一人ひとりを大事にする」とは、そういうことです。どのような経緯を辿ろうとも、この災禍が一日も早く収まるよう祈るものです。

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 アメリカ・メジャーリーグ(プロ野球)、アナハイム・エンジェルスの大谷翔平選手の活躍が注目され、日本でも連日のように報道されています。年に一度のオールスターゲームのファン投票では、指名打者部門でぶっちぎりの一番人気になっているそうです。野茂投手、イチロー選手、松井選手など、米国で活躍し人気になった選手たちは数多くいますが、今年の大谷選手の人気は桁違いに感じます。

 大谷選手が人気者になっている理由の一つに、彼の礼儀正しさや明るさ、優しさ、公正さなど、人柄の良さがあげられています。例えば、ミスジャッジが疑われるシーンでも、怒って抗議するのではなく軽くおどけて見せるとか、投手として出場して相手バッターにデッドボールを投げてしまった際も「すまんすまん!」というリアクションをしてみたりとか。先日は、グランドに落ちていたゴミをひょいと拾ってポケットに入れた様子をカメラが捉え、これを絶賛していました。

 確かに素晴らしい選手です。良さそうな人柄も顔の表情に表れていると思うほどです。だから、彼が称賛されると「本当に素晴らしい選手だな」と嬉しくなって見ていられます。

 でも、彼を絶賛するメジャーリーグのアナウンサーたちの声を聞きながら、ふと思ったのです「アメリカ人は、彼を絶賛するだけなの?」いや、正確にはアメリカ人ではなく、それを見ている私たちを含め、「みんなはどうなの?」ということです。

 相手にボールをぶつけたら、ゴメンと謝るのは当たり前。でも、プロ選手になると、そういうリスクも織り込み済みだし、強気を装わないといけないからと、謝りもしない。また、グランドのゴミを拾うのは整備係の役割であって、選手はプレーに集中すれば良いと言われればその通りだし、唾やガムを吐き捨てる選手もいる。なのに、大谷選手の行動を絶賛するということは、みんな大谷選手のようにする方が良いと思っているんですよね。つまり、みんなどうするのが良いのかを知っているということですよね。
園長:新井 純

緊急事態宣言延長が決まりました。テレビの情報番組で見たのですが、ステイホームや緊急事態宣言による感染防止効果は13〜16%程度だそうです。ただ、経済活動を完全ストップさせるロックダウンでさえ37%だと言うのですから、結局は集団免疫獲得までは終息しないということなのでしょうか。早く収まって欲しいと心から願います。

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 イエス・キリストは、人との距離をグッと縮めた方でした。聖書にはイエス様がたくさんの病人や障がい者をいやした物語が記されていますが、その中からマタイによる福音書8章の二つの物語を紹介しましょう。

 一つ目は重い皮膚病を患っている人をいやした物語。重い皮膚病の患者がイエス様に向かって「主よ、御心ならば、私を清くすることがおできになります」と言いました。当時、重い皮膚病は罪を犯した報いであると信じられていたので、多くの人は律法という掟に従い、「罪びととは交わらない」ことにしていました。つまり、交流を避けていたのです。

 当然患者は孤立し、孤独にさいなまれます。ただでさえ病気で辛く苦しいのに、社会的にもみんなから距離を取られてしまうのは辛いことです。

 でも、イエス様はこの人の訴えを聞いて、すぐさまその人に触れながら「よろしい、清くなれ」とおっしゃいました。「触れる」ということがポイントです。皆が接触を避けていたのに、イエス様は躊躇なく触ったのです。その瞬間の患者の心境を想像するのですが、どれほど嬉しかったことでしょう。みんなが避けるのに、この方は触れてくれたのです。

 二つ目は、百人隊長の部下の話です。ローマの兵隊の隊長が、遠くにいる部下が病気で寝込んでいるとイエス様に話しました。イエス様は「じゃあ、行こう!」とおっしゃるのですが、百人隊長は「いえ、わざわざ行かなくても、ここでおっしゃってくだされば、それで事足ります。なぜなら、隊長が命じれば部下は動くように、あなたが命令すれば、悪霊は去っていくでしょう」と言ったのでした。

 これには、よくそこまで信じてくれたとイエス様も感心しました。そして、フィジカルディスタンス(物理的距離)は取られたままですが、信頼の元で心の距離はグッと縮められました。

 最初の物語は、具体的に触れ合うことで、見た目を含む距離を縮めましたが、実はそれだけでなく、病気のゆえに罪びととされ、社会から疎外されていた人と触れ合うことで、精神的にも、社会的にもその距離は縮められたのです。つまり、イエス様ご自身はもちろん、患者の心の中にも「私と触れ合ってくれる人がいる!」という喜びが満ちていったのです。

 それだけではありません。周囲にいた人たちも「触れ合ってもいいんだ!」という気づきが与えられたでしょう。そう、つまらない偏見で仲間外れにしていたことの愚かさに気づく機会が与えられたのです。

 距離を空けることは、感染予防として大切です。でも、知らぬ間に心の距離まで空けないよう、気をつけたいものです。
園長:新井 純
 三たび緊急事態宣言が出されました。昨年に引き続きゴールデンウィークの楽しみがなくなってしまったという方々もおられましょう。新型コロナ騒動は簡単に収まるようなものではないと承知していますが、飲食業界等を中心に「我慢にも限界がある」という声を何度も聞くと、もう少しまともな対策はなかったのかなと思わずにいられなくなります。せめて、政治家の皆さんには、間違っても政治資金パーティーなど開いて「制限の範囲内だ」などと開き直り、我慢している国民を苛立たせるようなことのないよう、模範的行動を取って欲しいと願います。

 新約聖書の中にマタイによる福音書という書物があります。そこにこんなことが書いてあります。「人を裁くな。あなた方も裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。」

 解説の必要はないかもしれませんが、自分のことを棚に上げて、隣人の失敗や至らなさについて裁くのはよろしくないという内容です。なぜなら、あなたにも失敗はあるし、至らないこともあって、隣人を裁くなら、それはそのまま自分にも当てはまるのだから、あなたも裁かれますよということです。

 隣人の失敗を指摘することが悪いと言う意味ではありません。また、違反や罪を見逃さねばならないのか、ということでもありません。失敗や至らない点を指摘する時、それが建設的意見、すなわちその人が成長できるとか、意欲的に改善に取り組めるような仕方なら、大いに提案するべきでしょう。違反や罪に対しては、私たちは誰もが社会的責任を負っているのですから、違反や罪にはしかるべき償いが必要ですし、被害者が出ないようにするためにも、本人の省みが求められるべきであって、そのためには裁かれることも必要です。ただ、それらを個人的に行ったり、感情に任せて行うことが戒められています。先にも書いたように、人間は基本的には利己的で、自分のことは棚に上げて、つい感情で隣人を裁いてしまうからです。そう、緊急事態宣言だから出歩くな、とか、マスク警察のように。

 聖書は、あなたは自分の目に丸太が入っているのに、隣人の目にあるおがくずを取らせて欲しいと言えないでしょ?と書いています。目の中に丸太が入るなんて、非現実的だなと思っていましたが、それほどまでに自分のことは気づかないものなのだと思えば、なるほどそういうところはあるなと思わされます。自分の至らない点は過小評価して「失敗したけど大したことない」と思いたくなるし、なのに隣人のミスはガッツリ指摘したくなるのは、こういうことなのです。

 さらに、相手の目にあるおがくずとは、もしかしたら自分の目に入った丸太が相手の目に映っているものなのかもしれないと考えるとどうでしょう。これだと、指摘したくなる相手の欠点や罪が、実は自分に大きな責任があったかもしれないというがわかってきます。

 大事なのは、自分が完璧ではないということに「気付く」ことです。隣人を責める前に、自分を省みることです。子どもも同じ。できなくて当たり前、それを上手に引き上げるのが、大人の役割なのです。
園長:新井 純

 新しい年度のスタートです。昨年に引き続き、新型コロナ禍によって従来通りの保育とはいかないことが予想されますが、出来ることを探しながら、元気に楽しく過ごしたいと思います。

 ご存知の方もおられましょうが、イエス・キリストには12人の弟子がいました。その中に、ペトロという漁師がいました。彼は最初に召し出された弟子で、最も有名だと言っても良いでしょう。だから、さぞ立派な人物だったのだろうと思いきやさにあらず。実は「やっちまった!」ということが誰よりも多い弟子でした。実に、イエスさまが十字架につけられる直前にも、そんな出来事があったのです。

 ダヴィンチの絵でも有名な最後の晩餐の時でした。イエスさまは、ご自分に災難が降りかかり、そのために弟子たちがバラバラにされてしまうと預言されました。それを聞いたペトロは「たとえ、みんながバラバラにされても、私はあなたについて行きます!」と言いました。するとイエスさまは「あなたは今夜、鶏が2度鳴く前に、3度私を知らないと言う」と、ペトロも他の弟子たちと同じように、イエスさまから離れていくと預言したので、ペトロは「たとえご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と力一杯宣言しました。

 その夜、イエスさまは別の弟子の裏切りによって捕まってしまい、敵対勢力の本陣に連れて行かれました。ペトロはイエスさまのことが心配で、こっそり後について行ったようです

 大祭司の邸宅の庭で焚き火をしている人たちの輪に紛れ込んだペトロは、そこで様子を伺っていました。ところが、女中の一人が「あなたはあの人の仲間だ」と言い出したのです。「そんな人は知らない」としらばっくれたペトロは、そこを抜け出そうと出口に向かいました。その時鶏が鳴きました。別の人が「やはりお前はあの人の仲間だ」と言うので、「知らないって言ってるだろ!」と反論したペトロ。「いや、お前が一緒にいるところを見た」と言われ、ついにはイエスさまに対して呪いの言葉を使ってまで「知らない」と全力で否定したのでした。その瞬間に、また鶏が鳴きました。ペトロは、「鶏が2度鳴く前に、3度私を知らないというだろう」というイエスさまの言葉を思い出し、大声をあげて泣いたのでした。

 死んでもお供します!とあれだけ力強く誓ったのに、いざとなったらやっぱりダメでした。イエスさまの一番弟子でさえ、命が脅かされる危機の恐怖には耐えられませんでした。でも、それが人間の姿なのです。どんなに固い意志を持とうと、どんなに強がろうと、想定外の大波の前では、私たちは所詮翻弄される木の葉のようなものになってしまいます。そう、私たちは弱い存在なのです。でも、そんな私たちのことを神さまはご存知です。そして、弱いから見捨てるのではなく、弱いからこそ支えてくださるのです。

 子育ては困難の連続ですが、支えてくださる仲間が必ずいて、そこには全てをご存知の神さまが必ず一緒にいてくださいます。その力を感じる時、私たちは弱くてもしっかり立つことができるし、前を向いて歩き出す力を得るのです。弱くたっていいんです。

園長:新井 純

 イギリスのブリティッシュ・ゴット・タレント(以下BGT)という番組をよく視聴しています。この番組は世界各地に広がり、米国版アメリカズ・ゴット・タレントでは、蛯名健一さんという日本人ダンスパフォーマーが年間優勝を果たし、見事1億円を獲得したこともありました。

 それらはYouTubeで視聴でき、よく観ているのですが、スーザンボイルを生み出したBGTの2020年の優勝者は、ジョン・コートニーという、コメディアンのピアニストでした。彼は、ジョークを交えて面白おかしく弾き語りをするのですが、特に両親や家族のことを歌うので、面白いだけでなく感動的でさえあります。その彼が決勝の舞台で歌ったのは、新型コロナに苦しむ世の中と、こんな時だからこそ気付かされることがあったのではないかという問いかけでした。

 こんな感じです。「こんな時だからこそ問いかけたい、小さなことほど放っていないか?蚊は小さいけど、君を不快にさせるよね。だから、小さな幸せをさげすまないで欲しいんだ。たとえば、こういうことさ。バーゲンセールでワゴンにあった靴を履いてみたら、自分にピッタリのサイズだったとか、赤ちゃんがおむつ替えの時に笑ってくれたとか、無くしたはずのお気に入りの小さなペンが見つかったとか、サイズ9の服が着れたとか。普段はサイズ10なのにw」

 確かに、私たちの気持ちは、私たち自身の意識でいかようにも変わります。つまらないことを楽しいと感じることもあれば、くだらないことを面白いと感じる感性もあります。もちろん、その逆もあります。でも、どうせ同じことなら、マイナスに捉えるより、プラスに捉えた方が心は豊かになるはずです。

 新型コロナ禍によって、私たちの生活は大きく制限されました。何と言っても昨年2月26日に学校が休校になったことは衝撃的でした。子どもたちにとっても、楽しい夏休みとは違って、自宅学習が続くという異例の事態でした。ですから、保護者の皆さんも、家で勉強を教えなければならないし、外に出られないストレスで子どもの機嫌も悪くなるし、それを受け止めるのも大変だしと、戸惑いも大きかったでしょう。イベントもなくなり、お出かけ、旅行にも行けず、ステイホームの掛け声のもと、家で過ごす毎日。

 そんな日々を振り返ってジョン・コートニーさんは歌いました。「いつか子どもたちは思い出すに違いない、出来なかったことや失った日々ではなく、新型コロナがなかったらあり得なかっただろう、両親が遊んでくれて楽しく過ごした毎日を」

 私たちは、与えられた1日を生きるほかありません。ならば、その1日をいかに生きましょうか。どうせなら、笑顔になれる道を選択したいですよね。新型コロナで不自由な生活は園でも続きましたが、できることをして来ました。職員たちはそのために工夫しましたし、子どもたちも、その時その時を楽しく過ごしてくれたと思います。出来なかったことを数え上げるのではなく、こんな時だからこそ出来たことや気付かされたことを喜べる心の柔軟性を持っていたいと、改めて思ったのでした。

卒園児の皆さん、卒園おめでとう。在園児の皆さん、進級おめでとう。
園長:新井 純

 寒い日々が続いています。以前住んでいた新潟県十日町市は豪雪に見舞われ、年末年始にはニュースになっていました。それを観るたびに、よくぞあの豪雪の中で暮らしてきたなと、我がことながら感心します。そして、あの除雪除雪の日々を今やれと言われてももう無理だなと思いつつも、一方では雪が恋しくもなるのですから、人間は勝手なものです。兎にも角にも、雪で難儀している地域の皆さんの健康と安全の祈るものです。

 先日、ベテラン保育士が事務室に飛び込んできて、「園長先生!今ちょっとだけ時間いいですか!すぐです、すぐ!」と声をかけてきました。何かの相談かな、と思いつつ慌てているようだったので、急いで腰を上げると、保育士は「カプラ!」と叫んで事務室を出て行きました。カプラ?あ〜、そういうことか!と、部屋を出かかっていたのに、デスクに戻り、置いていたスマホ(カメラ)を掴んで後を追いました。

 カプラとは、小さな板状の積み木です。全て同じ大きさ、同じ形、同じ厚さなのですが、逆にそれゆえに発展性があり、想像を超える、創造性豊かな作品が出来上がります。当園の子どもたちも大好きで、年長にもなれば大人の背丈以上の高い塔を作ったりもします。なので、保育士が興奮して園長を呼びに来るくらいの何か凄いものが出来たのだと思ったのでした。

 部屋に入ると、カプラで遊んでいる子どもたちの姿がありました。もちろん、子どもたちの前には作品がありました。しかし、目に飛び込んで来るような大きな作品は見当たりません。どこかに面白い作品ができていると思い込んで見回してみても、目立つものはありません。とりあえず、年中児が年長児を真似して作ったと思われるような塔や建物のような作品があったので、その場にいた子どもたちに向かって「すご〜い!お〜、かっちょええ!」と驚いてみました。

 ところが、です。私を呼びに来たベテラン保育士が、「先生、こっち!」と促しました。そちらを見ると、カプラの板を単純に螺旋状に積み上げた30〜40cmくらいの高さの塔がありました。シンプルですが、作るのが難しい見事な螺旋でした。「えっ?これ?」と聞くと、満面の笑みを浮かべる保育士。「これを見て欲しかったの?」ともう一度聞くと、満足そうに頷く保育士。確かに、シンプルながら子どもが作れるようなものではありません。高い集中力とバランス感覚が求められるからです。でも、まさか保育士が自分の作品を見て欲しくて呼びに来るとは思ってもみなかったので、一瞬ずっこけた後、大笑いしました。

 子どもたちと遊んでいると、いつの間にか夢中になってその世界に入り込むということがよくあります。子どもはリアル(現実)とファンタジー(空想)を行ったり来たりしているものですが、大人もまた夢中になる時には夢の世界を旅することができるのです。

 新型コロナ禍でステイホームを強いられる日々ですが、こんな時だからこそ子どもと一緒に夢中になって遊ぶのも一興です。子どもたちは、きっとその時間を覚えていてくれますよ。

 私を呼びにきた保育士は、新しいカプラだから出来た、と言い、まんまと2000ピース買い増しの承認を勝ち取りましたとさ。
園長:新井純

 新年おめでとうございます。昨年は新型コロナウィルス感染症に翻弄された1年でした。今年もまだまだ対策は続きそうですが、子どもたち、保護者の皆さん、職員一同、健康が守られて、不自由ながらも喜びと感謝を分かち合いながら、成長しあえる1年となるよう、お祈りいたします。

 今年はさすがに神社に初詣をする人も減っていたようです。わたしは牧師なので神社で初詣はしません。と言うより、周囲には「初詣は教会へ!」と冗談まじりで呼びかけているのですが、今年はさすがにそうした呼びかけも控えめでした。

 でも、新型コロナが流行る前から、ある先輩牧師がこんなことを言っていました。「最近、スポーツ選手は神社に行かなくなったらしいぞ。だってな、神社行くと参拝せなあかんからな!」何がおかしいのですか?神社は参拝しに行くところでしょ?なんで参拝するから行かなくなるの?そう思って首を傾げていたら、先輩は続けてこう言いました。「これからは教会やで。教会は礼拝やからな!」ん、どういうこと?あっ、もしかして、参拝=3敗、礼拝=0敗ってことか!ダジャレかい!

 これだけで終わりません。「こんな話をしたらな、中には『キリストは十字架にかけられて殺されたんやろ?0敗どころか惨敗やないか!』って言う人もおるかもしれん。でもな、そん時は言い返すんや、『アホ!キリストはそこから復活したんじゃ』って」綺麗な連続技が決まって、座布団2枚と言いたいところでした。

 そうなのです。キリストは十字架に上げられて殺されますが、埋葬された3日目に甦ったと聖書は記しています。これは、イエスが殺されたことで絶望の底に突き落とされた弟子たちや、イエスを慕っていた人々にとっては、信じられないほどの大逆転劇でした。

 ただ、最初から信じられたわけではありません。弟子たちはイエスの復活を疑っていました。トマスという弟子に至っては、「私は、十字架につけられた時に刺された釘の跡があるはずの手のひらに自分の指を入れ、槍で刺された脇腹にこの手を入れてみるまでは信じない!」と言うほどでした。そんなことを言うトマスのところに、復活されたイエスは現れました。そして言うのです、「さあ、指を入れみよ。脇腹に手を突っ込んでみろ」そう言われたトマスは、師匠を信じきれていなかったことを悔いて、涙を流したのでした。

 新型コロナが収まるどころか、猛威を振るう中で迎えた2021年ですが、私たちは希望を失いません。「何とかなるさ♪」などと、根拠もなく楽観的になるには状況が深刻すぎますが、このままどんどん暗くなるはずはないのです。

 豪雪地であった前任地で雪と闘ってきた日々を思い出します。除雪して振り返ると雪が積もっているという虚しさや、除雪したいけど雪の捨て場所さえ無くなって途方に暮れたことなど、体力のみならず精神的に追い詰められていく雪害は、想像を絶する試練でした。でも、雪国の人々は、明けない冬はない、必ず春は来る!ということを知っているので、じっと耐え忍びます。同じように、新型コロナ禍もいつか必ず終息します。それを信じて、新しい年をスタートしましょう。

園長:新井純
 イエス様は、「聖霊によって身ごもった」と聖書には書いてあります。身ごもったマリアは婚約中だっため、婚約者のヨセフに身に覚えがなければ不貞行為、すなわち不倫をしていたとみなされてしまいます。不倫はいつの世も罪ですが、その当時は石打ちによる死罪でした。

 マリアを愛していたヨセフは、彼女を救うために婚約を解除することを考えます。怒って婚約破棄ではなく、密かに婚約をなかったことにしようとしたのです。そうすれば不倫にはならず、彼女は助かるからです。しかし、天の使いが現れてヨセフに言いました。「全ては整えられるから大丈夫。全てを委ねて安心して結婚しなさい」彼はそれを信じて受け入れました。

 不倫は文化だ!と発言したことで叩かれた俳優の石田純一さん、今年は3月に沖縄へ行き、ゴルフなどを楽しみ、そこで新型コロナに感染したとしてバッシングされました。不倫はともかく、病気になるのは決して彼の責任とは限りません。新型コロナに感染したために仕事を失ったり、転居を余儀無くされた方々もいると聞きます。自分は安全であることを確認したり、自分は正しいと思い込んだりするために、誰かを叩きまくるという集団心理の恐ろしさを思います。

 イエス様がこの世に生まれた時も、人々は律法に違反する者を叩いたり、病気や障がいを持っている人を「罪を犯したせいだ」と侮辱していました。言われなき偏見、差別です。でも、そうした人々にこそ寄り添い、言葉をかけ、触れ合い、本当はそうするのが望ましいに決まっている、私だってそうして欲しい、と人々に気づかせてくださったのがイエス様だったのです。

 そのイエス様のお誕生を祝うクリスマスが近づいてまいりました。子どもたちも聖誕劇の練習を始めています。困難な時代だからこそ、私たちに寄り添ってくださる救い主のお誕生を、感謝を持ってお祝いしたいと思います。

園長:新井 純

 先日、一人の青年と話をしていると、「田舎で働いていた時、そこでは多くの人が高卒で就職しているので驚いた」と言い出したので、私の方が驚きました。彼が言うに「自分は大学を出て、良い会社に就職するのが幸せだと思ってきたのに、そこでは高卒でも若くして家を建てて幸せに暮らしているので、何が幸せなのか、その価値観が変わった」というのです。

 何が幸せか、どうあるのが幸せか、そんなことは本人が決めることです。その当たり前のことに、アラサーになるまで気づかなかったということに、開いた口が塞がりませんでした。

 そこで、興味本位で尋ねました。「では、君は田舎暮らしに憧れ、田舎に住みたいと思っているのかい?」答えはNOでした。関西の町中で生まれ育った彼は、都会の便利さを当たり前のように享受し、それを捨てるつもりはないと言います。加えて、こんなことも言い出しました。「田舎で出会った彼女と話していると、話題は地元の話ばかり。世界が狭すぎる」君もたいがい偏狭な価値観を持っていたと告白したばかりやないかい!と心の中でツッコミを入れつつ、彼の中で価値観が変わったわけではなく、自分とは違う価値観が存在することを、身にしみてわかった、ということなのだと悟りました。

 価値観なんて、人ぞれぞれ、多様です。そして、どれが正解かというものではなく、どこに価値を見出すか、何に価値を見出すかは、見る人、感じる人、考える人、100人いれば100通りの基準で測られるものです。

 例えばです。若かった頃、片面が刻印されなかった珍しい50円玉が自販機のお釣りで出てきました。私はそれを目の前にあったパン屋さんですぐに使ってしまいました。ところが、数週間後、「お宝なんでも鑑定団」という番組に、その50円が出てきたではありませんか。「えー!まさかお宝だったの?」固唾を飲んで見守る私。テレビ画面には、250,000円という数字が並びました。当時の給料をはるかに上回る金額。「エラーコイン」というものがあり、それを収集しているマニアがいるという知識さえあれば、手元に残していたかもしれないと、どれほど悔しがったところで、もうその50円玉はテレビ画面の向こう側に行ってしまって戻ってはきませんでした。

 でも、私は1円も損はしていないのです。50円を50円として手に入れ、50円で使ったのですから。なのに249,950円の損をしたと思い込まされたのは、その50円に見出された、一部の人たちによってつけられた付加価値のせいです。私が悔しがったのは、その貴重な50円玉を手放したことではなく、25万円を儲け損ねたと思ったからです。つまり、私は25万円に価値を見出していたのです。逆に言えば、50万円出してでも、その貴重なコインを手に入れたいと思っている蒐集家もいるかもしれません。

 大人は子どもに様々な期待をかけます。でも、思い通りにならないことの方が多いかもしれません。しかし、子どもたちの可能性は多様であり、一人ひとりがかけがえのない宝を持っています。ですから、私たちは自分たちが期待するもので判断するのではなく、その子の存在にしっかり価値を見出したいと思います。

園長:新井純


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