イギリスのブリティッシュ・ゴット・タレント(以下BGT)という番組をよく視聴しています。この番組は世界各地に広がり、米国版アメリカズ・ゴット・タレントでは、蛯名健一さんという日本人ダンスパフォーマーが年間優勝を果たし、見事1億円を獲得したこともありました。

 それらはYouTubeで視聴でき、よく観ているのですが、スーザンボイルを生み出したBGTの2020年の優勝者は、ジョン・コートニーという、コメディアンのピアニストでした。彼は、ジョークを交えて面白おかしく弾き語りをするのですが、特に両親や家族のことを歌うので、面白いだけでなく感動的でさえあります。その彼が決勝の舞台で歌ったのは、新型コロナに苦しむ世の中と、こんな時だからこそ気付かされることがあったのではないかという問いかけでした。

 こんな感じです。「こんな時だからこそ問いかけたい、小さなことほど放っていないか?蚊は小さいけど、君を不快にさせるよね。だから、小さな幸せをさげすまないで欲しいんだ。たとえば、こういうことさ。バーゲンセールでワゴンにあった靴を履いてみたら、自分にピッタリのサイズだったとか、赤ちゃんがおむつ替えの時に笑ってくれたとか、無くしたはずのお気に入りの小さなペンが見つかったとか、サイズ9の服が着れたとか。普段はサイズ10なのにw」

 確かに、私たちの気持ちは、私たち自身の意識でいかようにも変わります。つまらないことを楽しいと感じることもあれば、くだらないことを面白いと感じる感性もあります。もちろん、その逆もあります。でも、どうせ同じことなら、マイナスに捉えるより、プラスに捉えた方が心は豊かになるはずです。

 新型コロナ禍によって、私たちの生活は大きく制限されました。何と言っても昨年2月26日に学校が休校になったことは衝撃的でした。子どもたちにとっても、楽しい夏休みとは違って、自宅学習が続くという異例の事態でした。ですから、保護者の皆さんも、家で勉強を教えなければならないし、外に出られないストレスで子どもの機嫌も悪くなるし、それを受け止めるのも大変だしと、戸惑いも大きかったでしょう。イベントもなくなり、お出かけ、旅行にも行けず、ステイホームの掛け声のもと、家で過ごす毎日。

 そんな日々を振り返ってジョン・コートニーさんは歌いました。「いつか子どもたちは思い出すに違いない、出来なかったことや失った日々ではなく、新型コロナがなかったらあり得なかっただろう、両親が遊んでくれて楽しく過ごした毎日を」

 私たちは、与えられた1日を生きるほかありません。ならば、その1日をいかに生きましょうか。どうせなら、笑顔になれる道を選択したいですよね。新型コロナで不自由な生活は園でも続きましたが、できることをして来ました。職員たちはそのために工夫しましたし、子どもたちも、その時その時を楽しく過ごしてくれたと思います。出来なかったことを数え上げるのではなく、こんな時だからこそ出来たことや気付かされたことを喜べる心の柔軟性を持っていたいと、改めて思ったのでした。

卒園児の皆さん、卒園おめでとう。在園児の皆さん、進級おめでとう。
園長:新井 純

 寒い日々が続いています。以前住んでいた新潟県十日町市は豪雪に見舞われ、年末年始にはニュースになっていました。それを観るたびに、よくぞあの豪雪の中で暮らしてきたなと、我がことながら感心します。そして、あの除雪除雪の日々を今やれと言われてももう無理だなと思いつつも、一方では雪が恋しくもなるのですから、人間は勝手なものです。兎にも角にも、雪で難儀している地域の皆さんの健康と安全の祈るものです。

 先日、ベテラン保育士が事務室に飛び込んできて、「園長先生!今ちょっとだけ時間いいですか!すぐです、すぐ!」と声をかけてきました。何かの相談かな、と思いつつ慌てているようだったので、急いで腰を上げると、保育士は「カプラ!」と叫んで事務室を出て行きました。カプラ?あ〜、そういうことか!と、部屋を出かかっていたのに、デスクに戻り、置いていたスマホ(カメラ)を掴んで後を追いました。

 カプラとは、小さな板状の積み木です。全て同じ大きさ、同じ形、同じ厚さなのですが、逆にそれゆえに発展性があり、想像を超える、創造性豊かな作品が出来上がります。当園の子どもたちも大好きで、年長にもなれば大人の背丈以上の高い塔を作ったりもします。なので、保育士が興奮して園長を呼びに来るくらいの何か凄いものが出来たのだと思ったのでした。

 部屋に入ると、カプラで遊んでいる子どもたちの姿がありました。もちろん、子どもたちの前には作品がありました。しかし、目に飛び込んで来るような大きな作品は見当たりません。どこかに面白い作品ができていると思い込んで見回してみても、目立つものはありません。とりあえず、年中児が年長児を真似して作ったと思われるような塔や建物のような作品があったので、その場にいた子どもたちに向かって「すご〜い!お〜、かっちょええ!」と驚いてみました。

 ところが、です。私を呼びに来たベテラン保育士が、「先生、こっち!」と促しました。そちらを見ると、カプラの板を単純に螺旋状に積み上げた30〜40cmくらいの高さの塔がありました。シンプルですが、作るのが難しい見事な螺旋でした。「えっ?これ?」と聞くと、満面の笑みを浮かべる保育士。「これを見て欲しかったの?」ともう一度聞くと、満足そうに頷く保育士。確かに、シンプルながら子どもが作れるようなものではありません。高い集中力とバランス感覚が求められるからです。でも、まさか保育士が自分の作品を見て欲しくて呼びに来るとは思ってもみなかったので、一瞬ずっこけた後、大笑いしました。

 子どもたちと遊んでいると、いつの間にか夢中になってその世界に入り込むということがよくあります。子どもはリアル(現実)とファンタジー(空想)を行ったり来たりしているものですが、大人もまた夢中になる時には夢の世界を旅することができるのです。

 新型コロナ禍でステイホームを強いられる日々ですが、こんな時だからこそ子どもと一緒に夢中になって遊ぶのも一興です。子どもたちは、きっとその時間を覚えていてくれますよ。

 私を呼びにきた保育士は、新しいカプラだから出来た、と言い、まんまと2000ピース買い増しの承認を勝ち取りましたとさ。
園長:新井純

 新年おめでとうございます。昨年は新型コロナウィルス感染症に翻弄された1年でした。今年もまだまだ対策は続きそうですが、子どもたち、保護者の皆さん、職員一同、健康が守られて、不自由ながらも喜びと感謝を分かち合いながら、成長しあえる1年となるよう、お祈りいたします。

 今年はさすがに神社に初詣をする人も減っていたようです。わたしは牧師なので神社で初詣はしません。と言うより、周囲には「初詣は教会へ!」と冗談まじりで呼びかけているのですが、今年はさすがにそうした呼びかけも控えめでした。

 でも、新型コロナが流行る前から、ある先輩牧師がこんなことを言っていました。「最近、スポーツ選手は神社に行かなくなったらしいぞ。だってな、神社行くと参拝せなあかんからな!」何がおかしいのですか?神社は参拝しに行くところでしょ?なんで参拝するから行かなくなるの?そう思って首を傾げていたら、先輩は続けてこう言いました。「これからは教会やで。教会は礼拝やからな!」ん、どういうこと?あっ、もしかして、参拝=3敗、礼拝=0敗ってことか!ダジャレかい!

 これだけで終わりません。「こんな話をしたらな、中には『キリストは十字架にかけられて殺されたんやろ?0敗どころか惨敗やないか!』って言う人もおるかもしれん。でもな、そん時は言い返すんや、『アホ!キリストはそこから復活したんじゃ』って」綺麗な連続技が決まって、座布団2枚と言いたいところでした。

 そうなのです。キリストは十字架に上げられて殺されますが、埋葬された3日目に甦ったと聖書は記しています。これは、イエスが殺されたことで絶望の底に突き落とされた弟子たちや、イエスを慕っていた人々にとっては、信じられないほどの大逆転劇でした。

 ただ、最初から信じられたわけではありません。弟子たちはイエスの復活を疑っていました。トマスという弟子に至っては、「私は、十字架につけられた時に刺された釘の跡があるはずの手のひらに自分の指を入れ、槍で刺された脇腹にこの手を入れてみるまでは信じない!」と言うほどでした。そんなことを言うトマスのところに、復活されたイエスは現れました。そして言うのです、「さあ、指を入れみよ。脇腹に手を突っ込んでみろ」そう言われたトマスは、師匠を信じきれていなかったことを悔いて、涙を流したのでした。

 新型コロナが収まるどころか、猛威を振るう中で迎えた2021年ですが、私たちは希望を失いません。「何とかなるさ♪」などと、根拠もなく楽観的になるには状況が深刻すぎますが、このままどんどん暗くなるはずはないのです。

 豪雪地であった前任地で雪と闘ってきた日々を思い出します。除雪して振り返ると雪が積もっているという虚しさや、除雪したいけど雪の捨て場所さえ無くなって途方に暮れたことなど、体力のみならず精神的に追い詰められていく雪害は、想像を絶する試練でした。でも、雪国の人々は、明けない冬はない、必ず春は来る!ということを知っているので、じっと耐え忍びます。同じように、新型コロナ禍もいつか必ず終息します。それを信じて、新しい年をスタートしましょう。

園長:新井純
 イエス様は、「聖霊によって身ごもった」と聖書には書いてあります。身ごもったマリアは婚約中だっため、婚約者のヨセフに身に覚えがなければ不貞行為、すなわち不倫をしていたとみなされてしまいます。不倫はいつの世も罪ですが、その当時は石打ちによる死罪でした。

 マリアを愛していたヨセフは、彼女を救うために婚約を解除することを考えます。怒って婚約破棄ではなく、密かに婚約をなかったことにしようとしたのです。そうすれば不倫にはならず、彼女は助かるからです。しかし、天の使いが現れてヨセフに言いました。「全ては整えられるから大丈夫。全てを委ねて安心して結婚しなさい」彼はそれを信じて受け入れました。

 不倫は文化だ!と発言したことで叩かれた俳優の石田純一さん、今年は3月に沖縄へ行き、ゴルフなどを楽しみ、そこで新型コロナに感染したとしてバッシングされました。不倫はともかく、病気になるのは決して彼の責任とは限りません。新型コロナに感染したために仕事を失ったり、転居を余儀無くされた方々もいると聞きます。自分は安全であることを確認したり、自分は正しいと思い込んだりするために、誰かを叩きまくるという集団心理の恐ろしさを思います。

 イエス様がこの世に生まれた時も、人々は律法に違反する者を叩いたり、病気や障がいを持っている人を「罪を犯したせいだ」と侮辱していました。言われなき偏見、差別です。でも、そうした人々にこそ寄り添い、言葉をかけ、触れ合い、本当はそうするのが望ましいに決まっている、私だってそうして欲しい、と人々に気づかせてくださったのがイエス様だったのです。

 そのイエス様のお誕生を祝うクリスマスが近づいてまいりました。子どもたちも聖誕劇の練習を始めています。困難な時代だからこそ、私たちに寄り添ってくださる救い主のお誕生を、感謝を持ってお祝いしたいと思います。

園長:新井 純

 先日、一人の青年と話をしていると、「田舎で働いていた時、そこでは多くの人が高卒で就職しているので驚いた」と言い出したので、私の方が驚きました。彼が言うに「自分は大学を出て、良い会社に就職するのが幸せだと思ってきたのに、そこでは高卒でも若くして家を建てて幸せに暮らしているので、何が幸せなのか、その価値観が変わった」というのです。

 何が幸せか、どうあるのが幸せか、そんなことは本人が決めることです。その当たり前のことに、アラサーになるまで気づかなかったということに、開いた口が塞がりませんでした。

 そこで、興味本位で尋ねました。「では、君は田舎暮らしに憧れ、田舎に住みたいと思っているのかい?」答えはNOでした。関西の町中で生まれ育った彼は、都会の便利さを当たり前のように享受し、それを捨てるつもりはないと言います。加えて、こんなことも言い出しました。「田舎で出会った彼女と話していると、話題は地元の話ばかり。世界が狭すぎる」君もたいがい偏狭な価値観を持っていたと告白したばかりやないかい!と心の中でツッコミを入れつつ、彼の中で価値観が変わったわけではなく、自分とは違う価値観が存在することを、身にしみてわかった、ということなのだと悟りました。

 価値観なんて、人ぞれぞれ、多様です。そして、どれが正解かというものではなく、どこに価値を見出すか、何に価値を見出すかは、見る人、感じる人、考える人、100人いれば100通りの基準で測られるものです。

 例えばです。若かった頃、片面が刻印されなかった珍しい50円玉が自販機のお釣りで出てきました。私はそれを目の前にあったパン屋さんですぐに使ってしまいました。ところが、数週間後、「お宝なんでも鑑定団」という番組に、その50円が出てきたではありませんか。「えー!まさかお宝だったの?」固唾を飲んで見守る私。テレビ画面には、250,000円という数字が並びました。当時の給料をはるかに上回る金額。「エラーコイン」というものがあり、それを収集しているマニアがいるという知識さえあれば、手元に残していたかもしれないと、どれほど悔しがったところで、もうその50円玉はテレビ画面の向こう側に行ってしまって戻ってはきませんでした。

 でも、私は1円も損はしていないのです。50円を50円として手に入れ、50円で使ったのですから。なのに249,950円の損をしたと思い込まされたのは、その50円に見出された、一部の人たちによってつけられた付加価値のせいです。私が悔しがったのは、その貴重な50円玉を手放したことではなく、25万円を儲け損ねたと思ったからです。つまり、私は25万円に価値を見出していたのです。逆に言えば、50万円出してでも、その貴重なコインを手に入れたいと思っている蒐集家もいるかもしれません。

 大人は子どもに様々な期待をかけます。でも、思い通りにならないことの方が多いかもしれません。しかし、子どもたちの可能性は多様であり、一人ひとりがかけがえのない宝を持っています。ですから、私たちは自分たちが期待するもので判断するのではなく、その子の存在にしっかり価値を見出したいと思います。

園長:新井純

 Nintendo Switchという携帯ゲーム機の「脳トレ」というソフトがあります。簡単な計算やミニゲームをしながら、脳を活性化させるというものです。我が家でもだいぶ前に購入していましたが、最近夫婦でこれを使い始めました。その中に、短時間で数字や物の位置を覚えて答えるという、短期記憶の課題があるのですが、これが苦手です。若い頃、おばあちゃんが「昔のことは良く覚えているのに」と言っていたのが、ついに自らのこととなってしまいました。

 では、昔のことはよく覚えているのか、と言うと、そこも案外いい加減なものです。一例を挙げると、私は小学校の時の成績はとても良かったと自負していて、妻や子どもたちに、「パパは国語算数理科社会では、『良い』とか『5』以外取ったことがない」と豪語していました。ところが、引越しの際、両親の荷物の中から私の通知表が発掘(?)され、改めて見てみると、全然そんなことはなく、3とか4も転がってました(笑)。

 さらに、その通知表を見返していると、こんなことが書いてありました。「クラスを盛り上げるのは良いが、友だちを巻き込んで度が過ぎる」「クラスの決め事を守るように」「友だちへの配慮が必要」今思い出せるだけでもこんな感じで、結構厳しい言葉が並んでいました。これを読んだ私の両親は、どんな心境だっただろうか、もし自分の子どもの成績表にこんな言葉が並んでいたら、私はどう思っただろうか、と思い巡らせました。

 そう言えば、給食の時間、盛り上がり過ぎて「廊下で食べなさい!」と教室を追い出されたことがありました。でも、その後廊下の方が盛り上がったために、教室に連れ戻されました。風邪で3日ほど休んだ後登校した時には、友達には大歓迎で迎え入れてもらえた代わりに、先生からは「純がいなかったこの3日間は、とても静かで落ち着いていた」と嫌味を言われました。でも、それを聞いた私は「頑張って盛り上げなきゃ!」と全く逆のことを考えていたのでした。学びや生活習慣を身につけさせ、クラス運営を通して社会性も育まなければならない先生という立場にしてみれば、はた迷惑な生徒だったのは間違いないようです。

 一つだけはっきりしていることは、それでも私は見捨てられなかったということです。通知表で指摘されたことについて諭されたことはあっても、打ちのめされて立ち直れないほど叱られた記憶はありません。諦められて放って置かれたと感じたこともありません。私はいつも、私の有り様を受け止めてもらっていたのです。

 ありのままを受け止めるというのは、決して簡単なことではありません。いわゆる受容できる範囲というのはありますし、受け止める側の心の余裕によっても変わるでしょう。また、何でもかんでも受容しなければならないとも限りません。わがまま、身勝手な行動、他者に著しい迷惑や危害を加える行動には制限をかけることもありますし、指導やしつけは必要なことです。

 その上で、仮に子どもであれば、その子の成長の過程をよく理解し、行動や言動を受け止めながら、必要な手を差し伸べるのです。

 私たちは心を傾けてもらったことをしっかり感じるものです。その思いは、必ず実りをもたらすと信じます。       園長:新井純

 新型コロナウィルス感染症の第2波とも言われる騒動に振り回された夏でした。加えて、熱中症対策という言葉を聞かない日はないくらい猛暑日が続き、夏を楽しむどころか、何とか無事にやり過ごせるようにと祈るほどでした。新型コロナ対策はまだまだ続きそうで、皆様にもご協力いただかねばなりませんが、子どもたちも保護者の皆様も、保育にあたる私たち職員も、健康が守られて、平安のうちに過ごせるよう祈るものです。

 連日の猛暑でしたが、当園の職員の中に、エアコンを使わずに寝ている者がいます。正確には、家にエアコンがあるのはリビングのみで、寝室含めて他の部屋にはエアコンを設置していないというのです。思わず、「どうやって寝てるの!」と聞かないではいられないのですが、アイスノンを抱えて寝てますとのこと。しかも、わずかでも夜間の温度が下がるような日は、窓も閉めてしまうのだそうです。私だけでなく、何人もの同僚から「死ぬよ?」と言われても、案外大丈夫なものです、と笑顔で答えていました。

 確かに、暑いから健康を崩すわけではありません。暑さから脱水症状を起こし、体温調節ができなくなり、熱中症になると大変なのであって、自然な汗がかけているのなら大丈夫なのです。実際、私自身、南の島にボランティアに行っていた時には、高温多湿のジャングルの中、エアコンどころか扇風機もない部屋でちゃんと寝られていました。静かに横になっているだけで、身体中を汗がスーッと流れ落ちていくのがわかるような環境でしたから、流石にはじめの数日間は寝苦しく感じていましたが、そのうち慣れてしまうのですから、人間の適応力はすごいものです。

 ただ、北海道から来た若者は、体調を崩してしまいました。汗を上手にかけなかったようです。本人のせいではなく、生まれ育った環境が、そのような暑さに対応する体を作らなかったのでしょう。それでも、10日くらいすると元気に働けるようになったのですから、これもまた適応力の凄さなのかもしれません。

 ちょっと前までは、エアコンなどで子どもを甘やかさない方が良いなどという意見を耳にしていました。その方が汗腺を発達させ、体温調節機能が高まるということのようです。私が青年だった頃は、スポーツの最中に水を飲むのは、体が疲れるという理由でご法度でした。今だったら虐待や行き過ぎ指導と言われるでしょう。

 そんなことを思い返しながら、命と健康を守るということと、心身の理想的な育成ということについて考えるのです。最も大切なのは命を守り、健康を害さないよう配慮することでしょう。同時に、私たちは温度管理された無菌室にいるわけではなく、自然の中で生きていますから、様々な環境変化に対応する能力も求められます。ウィルスや細菌などについても、ある程度は体内に入っても(入っていても)、免疫力によって発症を抑えるなどして健康を維持できることが理想です。

 そうした心と身体は、しっかり遊んで、しっかり食べて、しっかり寝るなどの、自然な命の営みを当たり前のようにすることで培われるように思います。人工的なものは、それを助けるために用いるべきでしょう。後は、私たちに備えられた適応力に期待しましょう。  園長:新井純
暑い夏がやってきました。ただ、今年の夏は何かと制限が多く、自由にお出かけできないなど、開放感あふれる楽しみ方がしにくかもしれません。それでも、健康と安全が守られながら、子どもたちには夏ならではの遊びやイベントを楽しんで欲しいと思っています。

とは言いつつ、やはりこの段階で不特定多数の人々が密集することへの懸念は払拭できず、園の夏祭りは中止しました。逆に、日常の保育の延長であるお泊まり保育は、予定通り行いました。あいにくの雨天でしたが、思い出深い一泊二日を楽しみました。

その時のことです。年長児たちと神経衰弱ゲームをしました。裏向けたたくさんのカードを2枚選んでめくり、同じカードを揃えるという昔ながらの遊びです。ゲームが始まって最初の順番の時、ひとりの子がパッパッと2枚をめくり、それが一致したのでサッと手元に取りました。明らかにその2枚が同じカードであることを知っていた動作でした。なので、「知ってたの?」と尋ねると、バレたか!というような緊張した表情で固まってしまいました。「ズルはあかんな」とさとすと、神妙な面持ちで頷いていました。

しばらくして、他の子がカードを選んでいる時、今度は自分の周囲のカードをコソッとめくって覗き見しているのが見えました。「見―たーなー?」と言うと、またまた緊張して固まりました。「ズルしたら楽しく遊べなくなっちゃうよ」と言うと、しまったという表情を浮かべていました。こうしたやり取りを周囲の子も知っていたのですが、わかっているのかいないのか、他の子たちの反応はありません。

ゲームは接戦で終盤を迎え、その子は劣勢だったのですが、なんと最後に運良く5〜6組を連続して引き当て勝利しました。心の中で、(最初のうちにズルしてたしな)と大人気ない心境の私に反し、ゲームに参加していた他の子たちは気にする様子はありません。特に最後に逆転で勝利を逃した子は「今回は○○の勝ちや」とあっさり。「あ、それでええんや?」と、私は拍子抜けしてしまいました。

別に勝ち負けにこだわっていたつもりではないのです。楽しくやっていたゲームが、ちょっとしたズルで勝ち負けにこだわるものにされてしまったことが、なんか嫌だったのです。もちろん、勝ち負けにこだわることがいけないのでもないし、やるからには勝利を目指すのは当然です。でも、そのためにルールを破ったり、仲間に背を向ける行為が正当化されてしまうような利己的な発想の芽があったとしたら、摘んでしまいたいと思ったのです。

でも、結果的に、私が勝負にこだわっていたのかもしれません。子どもたちはもっと単純に、そして純粋にゲームを楽しんだのです。中には、やっと1組だけ取ることができた子もいました。その瞬間は、私の方が喜んだほどです。周りの子はキョトンとしていました。でも、そうやって、みんなそれぞれのゴールや目標を持って、友だちや先生と一緒にゲームをすることを楽しんでいたのかもしれません。

「大人の価値観を押し付けないで!」と、また子どもたちに教えられた気分です。
園長:新井純

ランプの魔人ジーニーが登場するディズニーのアニメ映画「アラジン」を観ました。主人公のアラジンは、貧しいながらもいつかお金持ちになって、宮殿のようなところに住むという大きな夢を持つ青年。生きるためと言いながら、市場で食べ物をちょろまかすようなことを繰り返していましたが、せっかく手に入れた食べ物をひもじそうにしている子どもたちに譲ってしまうような、心優しい若者でした。

そんな彼が、いろいろありまして(中略)、不思議なランプを手に入れます。それは、ランプをこすると魔人ジーニーが現れ、願いを3つだけ叶えてくれるという魔法のランプでした。

魔人ジーニーが早速アラジンに尋ねます、「願いは何にする?」突然のことにアラジンは戸惑い、逆にジーニーに質問しました。「君なら何を願う?」ご主人様の願いを3つだけ叶える召使いとして生きてきたジーニーにとって、自分の意志というものはありませんでした。いや、意思はあっても、その通りに行動することはできない、いわば奴隷だったのです。そのように生きて来たジーニーが望んだのは、「自由」でした。

私たちは、おそらく自由であることを当たり前だと思っているでしょう。いくつかの国に見られるような、様々な権利が奪われたり、発言さえも制限を受けたりする社会について、実に不自由で不便で不幸だと思うのです。

ところが、新型コロナウィルス感染症は、自由を当たり前だと思っていた私たちを不自由にしました。様々な制限がかけられ、自粛警察やマスク警察などと呼ばれる、互いを監視しあうかのような心理状態に追い込まれた結果、本来自由に振る舞えるはずの個々の行動さえも、見えない圧力によって規制されているかのような錯覚を覚えるようになったのです。

そのような心理状態は、強権を発動する国のシステムをうらやむようにさえなり、国民を規制する強権を政府に与えるべきだという発想さえ生み出しました。あまりに短絡的で、冷静さを欠いていると言わざるを得ません。なぜなら、与えられた強権は、必ずその権力を持っている者たちのために使われるようになるからです。そして、権力の外側にいる者たちは隷属させられ、多様性は失われて行くのです。

やはり私たちにとって、自由であることはとても大切なことです。個性を大事に、などと言われるのも、自由が保証されていればこそ掲げられるスローガンです。

もちろん、自由とは好き勝手にできること、自分の思い通りに振る舞うことが許されているというものではありません。自由には、責任が伴うのです。その上で、自分の発言や振る舞いの責任を負うことが許されるということがいかに素晴らしいことなのかを思うのです。

魔人ジーニーが自由を求めたのは、それに勝るものはなかったからです。どんなにすごい力を持っていても、魔法を使えても、自由には敵わないのです。そんな自由を持っている私たち、これからも自らの歩む道を自ら選びとって歩める世界を築き、あるいは守り続けていかなければならないと思うのでした。
園長:新井 純

新型コロナウィルス感染症対策で登園自粛要請が出された時、震災などの自然災害発生時の経験から私が心配していたのは、子どもたちのストレスと、保護者の皆さんのストレスについてでした。活動が活発な子どもたちは、家の中にいるだけでは十分な発散が出来ず、ストレスを溜めるでしょう。発散したいために「いらんこと」をして叱られるかもしれません。それもまたストレス。

親御さんにとっては、子どもとゆっくり過ごせると思える時は良いですが、四六時中子どもと一緒ということが負担になる場合もあります。あるお母さんは、「保育士と母と妻と仕事人であることを全部いっぺんにやらされている」と嘆いていました。そんな中では、ついつい怒りっぽくもなるし、子どもが「いらんこと」をすれば、いつも以上に叱りつけるかもしれません。それもまたストレス。

海外では、早々から家庭内暴力や虐待が警戒され、実際その報告も出てきました。感染症を恐れた登園自粛が、虐待を誘発してしまっては元も子もありません。

似たようなチグハグなことが一般的にも言われていました。自粛が強まることで経済的に行き詰まり、自死する人が増えるのではないかと。

そのような中、確か連休中だったと思いますがTVニュースで、50人規模のBBQを企画した人へのインタビューを聞きました。主催者は「もう何人もの友人が自ら命を絶った。だから、繋がりを確認し、励まし合いたいんだ」とその理由を語りました。当初は10人くらいでやるつもりが、噂を聞きつけて人が集まり50人になったとも。ついでに警察や保健所に「自粛とは何か?衛生的に問題になるか?」などを問い合わせて、そのBBQが違法ではないことを確認しておいたというのを聞いて、感心したのでした。

外出自粛の呼びかけは、命を守るためのものでしたが、経済的困窮や、人との交わりの減少から孤独へと追いやられ、悲しい結果になってしまったケースもあったでしょう。このBBQの主催者は、単なる思い付きでBBQをしたのではなく、何が何でもそうしなければならないと思っていた自粛生活に、何が一番大切で、本当に優先すべきなのは何なのか、それを自分たちで考え判断したい、という意思を表し、社会に一石を投じたように感じました。

一方、自粛生活のために若年層の自死は減っているというニュースもありました。登校や出社が減り、いじめに合わないとか、対人ストレスが減ったためだというのです。驚きましたが、なるほど、そういうこともあるんだなと、こちらは複雑な心境でした。もちろん、そんな思いをしなくても良い関係作りや、一人ひとりが尊重される社会であるべきとの思いも新たにしました。

所詮、私たちは物事をある一面からしか見ていないことの方が多い、ということを思い知らされた気分です。同時に、私たちは自分のフィルターにかけて物事を判断するものだということを確認させられた気がしました。

その自覚をしつつ、私たちは子どもたちの育ちに何が必要で、何が喜ばれるのかを考えながら、その時々の情報を吟味して、保育に生かしていきたいと思うのでありました。
園長:新井 純


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