三たび緊急事態宣言が出されました。昨年に引き続きゴールデンウィークの楽しみがなくなってしまったという方々もおられましょう。新型コロナ騒動は簡単に収まるようなものではないと承知していますが、飲食業界等を中心に「我慢にも限界がある」という声を何度も聞くと、もう少しまともな対策はなかったのかなと思わずにいられなくなります。せめて、政治家の皆さんには、間違っても政治資金パーティーなど開いて「制限の範囲内だ」などと開き直り、我慢している国民を苛立たせるようなことのないよう、模範的行動を取って欲しいと願います。

 新約聖書の中にマタイによる福音書という書物があります。そこにこんなことが書いてあります。「人を裁くな。あなた方も裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。」

 解説の必要はないかもしれませんが、自分のことを棚に上げて、隣人の失敗や至らなさについて裁くのはよろしくないという内容です。なぜなら、あなたにも失敗はあるし、至らないこともあって、隣人を裁くなら、それはそのまま自分にも当てはまるのだから、あなたも裁かれますよということです。

 隣人の失敗を指摘することが悪いと言う意味ではありません。また、違反や罪を見逃さねばならないのか、ということでもありません。失敗や至らない点を指摘する時、それが建設的意見、すなわちその人が成長できるとか、意欲的に改善に取り組めるような仕方なら、大いに提案するべきでしょう。違反や罪に対しては、私たちは誰もが社会的責任を負っているのですから、違反や罪にはしかるべき償いが必要ですし、被害者が出ないようにするためにも、本人の省みが求められるべきであって、そのためには裁かれることも必要です。ただ、それらを個人的に行ったり、感情に任せて行うことが戒められています。先にも書いたように、人間は基本的には利己的で、自分のことは棚に上げて、つい感情で隣人を裁いてしまうからです。そう、緊急事態宣言だから出歩くな、とか、マスク警察のように。

 聖書は、あなたは自分の目に丸太が入っているのに、隣人の目にあるおがくずを取らせて欲しいと言えないでしょ?と書いています。目の中に丸太が入るなんて、非現実的だなと思っていましたが、それほどまでに自分のことは気づかないものなのだと思えば、なるほどそういうところはあるなと思わされます。自分の至らない点は過小評価して「失敗したけど大したことない」と思いたくなるし、なのに隣人のミスはガッツリ指摘したくなるのは、こういうことなのです。

 さらに、相手の目にあるおがくずとは、もしかしたら自分の目に入った丸太が相手の目に映っているものなのかもしれないと考えるとどうでしょう。これだと、指摘したくなる相手の欠点や罪が、実は自分に大きな責任があったかもしれないというがわかってきます。

 大事なのは、自分が完璧ではないということに「気付く」ことです。隣人を責める前に、自分を省みることです。子どもも同じ。できなくて当たり前、それを上手に引き上げるのが、大人の役割なのです。
園長:新井 純


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