先日、一人の青年と話をしていると、「田舎で働いていた時、そこでは多くの人が高卒で就職しているので驚いた」と言い出したので、私の方が驚きました。彼が言うに「自分は大学を出て、良い会社に就職するのが幸せだと思ってきたのに、そこでは高卒でも若くして家を建てて幸せに暮らしているので、何が幸せなのか、その価値観が変わった」というのです。

 何が幸せか、どうあるのが幸せか、そんなことは本人が決めることです。その当たり前のことに、アラサーになるまで気づかなかったということに、開いた口が塞がりませんでした。

 そこで、興味本位で尋ねました。「では、君は田舎暮らしに憧れ、田舎に住みたいと思っているのかい?」答えはNOでした。関西の町中で生まれ育った彼は、都会の便利さを当たり前のように享受し、それを捨てるつもりはないと言います。加えて、こんなことも言い出しました。「田舎で出会った彼女と話していると、話題は地元の話ばかり。世界が狭すぎる」君もたいがい偏狭な価値観を持っていたと告白したばかりやないかい!と心の中でツッコミを入れつつ、彼の中で価値観が変わったわけではなく、自分とは違う価値観が存在することを、身にしみてわかった、ということなのだと悟りました。

 価値観なんて、人ぞれぞれ、多様です。そして、どれが正解かというものではなく、どこに価値を見出すか、何に価値を見出すかは、見る人、感じる人、考える人、100人いれば100通りの基準で測られるものです。

 例えばです。若かった頃、片面が刻印されなかった珍しい50円玉が自販機のお釣りで出てきました。私はそれを目の前にあったパン屋さんですぐに使ってしまいました。ところが、数週間後、「お宝なんでも鑑定団」という番組に、その50円が出てきたではありませんか。「えー!まさかお宝だったの?」固唾を飲んで見守る私。テレビ画面には、250,000円という数字が並びました。当時の給料をはるかに上回る金額。「エラーコイン」というものがあり、それを収集しているマニアがいるという知識さえあれば、手元に残していたかもしれないと、どれほど悔しがったところで、もうその50円玉はテレビ画面の向こう側に行ってしまって戻ってはきませんでした。

 でも、私は1円も損はしていないのです。50円を50円として手に入れ、50円で使ったのですから。なのに249,950円の損をしたと思い込まされたのは、その50円に見出された、一部の人たちによってつけられた付加価値のせいです。私が悔しがったのは、その貴重な50円玉を手放したことではなく、25万円を儲け損ねたと思ったからです。つまり、私は25万円に価値を見出していたのです。逆に言えば、50万円出してでも、その貴重なコインを手に入れたいと思っている蒐集家もいるかもしれません。

 大人は子どもに様々な期待をかけます。でも、思い通りにならないことの方が多いかもしれません。しかし、子どもたちの可能性は多様であり、一人ひとりがかけがえのない宝を持っています。ですから、私たちは自分たちが期待するもので判断するのではなく、その子の存在にしっかり価値を見出したいと思います。

園長:新井純


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