暖冬小雪がニュースになっています。私が4年前まで在任していた豪雪地帯である新潟県十日町市も、例年なら2mくらいあるはずの積雪が今年は1月27日現在0cmとのことでした。

雪国は雪がないと困ることがあります。ニュースになっているのはスキー場の雪不足。営業ができなければお客さんも来ませんから、スキー場はもちろん、用具のレンタル業者、飲食施設、宿泊施設なども合わせて打撃を受けます。

他には、土建業者が影響を受けます。雪国は通常冬季に工事をしません。雪に邪魔されて工事が進みにくいからです。その代わり、道路や屋根の除雪に従事します。特に、道路除雪は国や県や市町村から委託を受けるので、冬季の主たる収入になります。それをあてにして大型の除雪車両も揃えます。にも関わらず雪が降らず出動機会が減れば、当然収入がなくなるので悲鳴をあげることになります。もちろん、業者が除雪体制を整えてくれなければ行政サイドも困りますから、小雪の時でもある程度の補助金は出ます。その辺は持ちつ持たれつの関係があるのですが、やはり冬は除雪が頼みの綱という業界にとっては、小雪は困った事態ではあります。

さらに、雪は山に降りますから、それは春以降の水の供給や山の恵みの源になります。従って冬季の雪不足は、春以降の水不足を引き起こすので、雪があまり降らない平野部の人々にも大きな影響を与えるのです。

こうした暖冬小雪は地球温暖化の影響ではないかと危惧されています。小雪のことだけで判断するなら、過去にも小雪は何度もあったので、一概に地球温暖化の影響とは言えないかも知れません。しかし、地球温暖化が大きな問題として認識されていることは確かです。そして、その対策が叫ばれながら、経済優先の政策や私たちの暮らしは、見たくないものを見ないようにしているのではないかと心配になります。

今だけ良ければそれで良いじゃないか、あるいは今をやり過ごせばどうにかなる、そんな発想を続けていたら、将来大きなしっぺ返しを食らうのは言うまでもありません。しかも、そのツケは今の子どもたちが払わされるのであり、私たちが高齢者になった時の福祉などにも大きなダメージをもたらすのは想像に難くないでしょう。

こんなお話があります。おじいさんが果物の苗木を植えていました。そこへ若い旅人が通りかかり、おじいさんのしていることを見て笑いながらこう言いました。「じいさん、この果物が実る年まで生きていられると思っているのかい。食べられもしないものを植えても仕方ないだろう」するとおじいさんは微笑みながらこう答えたのです。「わしは子どもの頃からこの果物を食べてきた。でも、それはわしが植えたものではないのだよ」

私たちが今受けている恵みは、先人たちの労苦の上にあるのだと知れば、私たちはそれをただただ食いつぶすのではなく、次世代に繋いでいかなければならない責任を負っていることにも気づけるでしょう。見たくないから見ない、聞きたくないから聞かない、そんなことを繰り返していくような愚かさに決別し、私たちの子どもたちを含む次世代への責任を果たすことをきちんと考える者でありたいと思います。 園長:新井 純

新年おめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。

年の始まりには、新しい決意をしたり、1年の目標を定めたりする方は多いでしょう。初詣に行ってお願い事をして来られた方もいらっしゃるはずです。私の家はキリスト教徒でしたから、神社に初詣に行くことはありませんでしたが、京都に引っ越してきた時、テレビで八坂神社の「おけら参り」(縄の先に火を灯し、消えないようにグルグル回しながら歩いている姿が印象的)や、NHK紅白歌合戦の後に放送される「ゆく年くる年」で知恩院の鐘が鳴らされるのを観て、一度ナマで見てみたいと思いたちました。そこで、姉と二人で行ってみました。でも、いざ行ってみると、あまりの人の多さに鐘楼に近づくことさえできず、うんざりして帰宅したのを覚えています。

さて、私は昨年こんな目標を立てました。「1年365万歩歩く」実は一昨年、1日1万歩を1年続けるという目標を立てたものの、半月もしないうちに途絶えてしまいガッカリしたので、それなら平均して1日1万歩になれば良いのだと、365万歩という目標を設定したのでした。

1〜4月までは順調に歩数を伸ばし、これなら400万歩くらいいっちゃうんじゃない?なんて浮かれていました。ところが、会議や出張が多くなった5月以降、途端に記録が伸び悩むようになります。雨天が多くなれば歩く機会も減りますし、気温が高いと出歩くのも嫌になり、移動も最小限の労力で済まそうとしてしまいます。結果、秋には春までの貯金をすっかり吐き出し、余裕だったはずの365万歩に黄色信号が灯ってしまいました。

「まるでウサギとカメだ」とうなだれていても歩数は伸びませんから、11月からまたせっせと歩くことを心がけました。そして、無事目標を超える370万歩ほどでフィニッシュしました。

やったぜ!と思っていたところでこんな言葉に出会いました。「一度口にしたことは断固として行うというのは、潔く思えるし、決断力と意思の強さの表れにも思われる。だから正しいと。でも、よく考えてみればある種の頑固であり、強情の表れ。もしかしたら名誉心や虚栄心が隠されているかも。だから、行為するかどうかはもっと別の理性的な視点から、それが本当に良いかどうか見極めてからなされるべきだ(ニーチェ)」

なるほど、確かにそうかもしれません。初志貫徹などと言えば聞こえは良いですが、最初の計画や目標が必ずしも私たちを正しい道に導くとは限りません。私の1年365万歩にしても、自分の健康のためと言いながら、「こんな目標を達成したんだよ」みたいな自慢の種にもなるわけですから、そう考えるとなんだかなぁ、であります。

では、目標など立てるのはやめましょうか。あるいはどんな目標も志も、「言うだけ番長」でええやん!ということにしておきましょうか。

いえいえ、それは違いますね。目標にとらわれ過ぎるのは道を踏み外してしまう危険をはらんでいるかもしれませんが、達成するために努力することは、私たちを成長させる力になるはずです。ですから、柔軟さを備えた上で、目標目指して走る(歩く)ものでありたいと思います。

 園長:新井 純

 先日ローマ教皇が訪日しました。わたしは出張中だったためTVもほとんど見ず、いつどこへ行き何をされたのかもわかりませんが、訪日前後でチラッと見聞きしたところでは、長崎や広島を訪ね、広島では教皇訪問のために平和祈念資料館への入館ができなくなってしまった修学旅行生たちを、教皇自身が招待したなどということがあったのことでした。そのあたりの判断がパパと呼ばれて親しまれるゆえんであり、生徒たちにとっては、思い出深い修学旅行になったことでしょう。

 教皇訪日関連のニュースで気がついたのですが、アナウンサーが他国の国家元首を迎えるかのような丁寧な言葉遣いで報道していました。それに違和感を抱いたのですが、よくよく考えてみれば教皇はバチカン市国の統治者ですから、なるほど国家元首と同じ報道姿勢というのも納得です。

 世光保育園の母体となっている世光教会は、宗教改革の時に分離独立したプロテスタントという教派ですから、同じキリスト教ではありますが、カトリック教会のトップであるローマ教皇に対して特別な感情を持っていません。でも、決して仲が悪いわけではなく、むしろ多少の違いはあっても同じ神さまを信じ、イエスを救い主キリストであると信じるという点では一致しています。

 このキリストのお誕生をお祝いするのがクリスマスです。子どもたちが演じるページェントは、聖書に記されているイエス誕生物語をまとめたもので、世界中で演じられています。単なる劇としてではなく、クリスマスをお祝いする心、喜びと感謝の気持ちの表現を合わせて感じ取っていただければ幸いです。

園長:新井 純

 子どもが小さかった頃、先輩を訪ねてアメリカ西海岸へ旅行したことがあります。長男が年長組、次男が1歳半でした。恥ずかしながら薄給だったので渡航費はアルバイトをして稼ぎ、滞在費や現地で使うお小遣いは、趣味で使っていた釣具のルアーをヤフーオークションで売ってかき集めました。ホテルなどは日本で予約するととても高かったので、今ほど便利ではなかったインターネットを使い、レンタカーや現地のモーテルに直接予約を入れるなど、「ほんまに大丈夫なん?」と不安だらけの準備となりました。

 小さな子どもを連れて海外旅行をした方々の経験談を参考に、荷物を極力減らしつつ、大きなスーツケースの片面は全て次男の紙オムツで埋められるというユニークなパッキングをして出発。飛行機の中で子どもがぐずったりしないよう入念な準備をしたことも功を奏し、快適なフライトで旅を始め、サンディエゴ、ロサンゼルス、サンフランシスコと、旅を楽しみました。

 旅の目玉の一つは、ディズニーランドでした。東京ディズニーランドの方が大きくて立派なのですが、親の方はやはり本場?本家?そんなイメージを持っていたので、まるで聖地にでも来たかのような気の高ぶりようでした。

 このテーマパークを限られた時間の中で、いかに効率よく楽しむかは大きなテーマでした。待ち時間を極力減らし、ショーの時間と並び時間の調整など、刻々と変わる状況にいかに対応しようか、そればかりを考えていました。そのため、「あれに乗りたい」「あそこにはいつ行くの?」という子どもの声は、うっとうしいものに聞こえてしまい、「必ず行くから!」「考えてるんだから黙って!」みたいに、子どものことを全く考えない、絵に描いたようなダメ親になり下がってしまいました。それに気づきながらも自制できない自分にもイライラしたのを思い出します。

 その夜、妻と共に猛省しました。私たちは一体何をしにここへ来たのか?子どもたちのためと言いながら、子どもたちはイライラしてる親のせいでまるで楽しめてなかったのではないか?旅の目的、ここに家族で来た意味をもう一度振り返ってみよう、と。

 そして、相談の後、子どもたちにこう宣言したのです、「明日は〇デーにする(〇は長男の名前)」それは、子どもが行きたい場所へ行き、乗りたいものに乗り、観たいショーを観るという、実に単純なものでした。効率などは考えない、無駄な時間もたくさんできるかもしれないけど、本当の意味で子どもたちが思い通りに楽しめる時間を作り、その時を一緒に過ごすというものでした。

 結果は、前日のイライラは何だったのかと思うほど、楽しくて充実した1日を過ごしました。無駄な時間もほとんどなく、日差しの強い時間にはホテルに戻ってプールで遊ぶ余裕もできたほどでした。何より、子どもたちは前日のように不安そうな表情を見せることなく、どこまでも明るく、楽しそうでした。それを見る私たち親の顔もずっとにこやかだったのは言うまでもありません。

 その時にしか経験できないことは、いつまでも心に残ります。苦労したことも、心砕いたことも、振り返ってみれば、知恵と力の源となっているのです。

園長:新井 純
2019年10月12日(土)の保育は、台風19号による暴風警報が午前11時までに解除される見込みなしと判断し、休園いたします。皆様、不要不急の外出を控え、安全にお過ごしください。大きな被害が出ないようお祈りしています。園長
園長、実は料理男子。大したことはしませんが、居酒屋で食べて気に入ったおつまみとか、バングラデシュで食べたカレーとか、急に「カオマンガイ食べたい!」などのように思いついたものなど、自分で作ります。もちろん、家族と一緒に食べるためです。

はじめの頃は、材料費などを全く気にせず買い物をしたり、片付けないで料理を続けるからキッチンがぐちゃぐちゃになったりで、妻は嬉しいの半分、困ったちゃん半分だったようです。でも、次第に慣れてくるとこちらも要領が良くなってきますし、妻も自分では決して作らないメニューが出てくるので、楽しみにしてくれるようになりました。

そんな中、今回ご紹介するのはパンダカレー。
特に変わったところのない、ごく普通のカレーです。
が、ごはんがパンダ(笑)
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ごはんを俵型のおにぎりにし、海苔で目鼻や模様を作り貼り付けただけ。
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ネットで見つけました。おしりも可愛いでしょ(^^)
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普段から仕事、子育て、家事に奮闘していると、身体だけじゃなく心も疲れてきますね。お疲れさまです。
でも、ちょっと心に余裕ができた時には、子どもと一緒にこんなことをしてみると、楽しい時間が過ごせるかもしれません。
このような、日常の、ほんの些細なことを子どもは楽しかった思い出として心に残していくものです。
 10月に入ると言うのに、なんでこんなに暑いのでしょう。国連では、温暖化対策に消極的な先進国に対し、スウェーデン人少女が涙ながらに怒りのスピーチをしたことがニュースになりました。この高気温が一過性のものではなく地球温暖化の影響だとしたら、人類は地球上で最も繁栄していながら絶滅の危機に瀕していると言わねばなりません。たとえそうでなくても、自然との共存ということについて、私たちはもう少し謙虚にならなければいけないと思う今日この頃です。

 うちの長男(社会人です)は最近カードゲームがお気に入りのようで、同好の士が集まるカフェなどに行っているという話を聞きました。一人では遊べないカードゲームやボードゲームでも、そこに行けば同じ趣味の誰かが遊び相手を待っているので、一人で出かけて行ってもゲームを楽しめるというわけです。休みが取りにくい忙しい日々、たまの休みにそのような場所を訪れ、同好の士とゲームを楽しみながら友だちもできるのですから、面白い趣味を見つけたものだと感心していました。

 その彼が、月に1度くらい我が家に帰ってくるたびに新しいゲームを持ってくるようになりました。楽しいと思うことを共有したいようです。そこで、家族ゲーム大会が始まります。新しいゲームが多いので、ルールを覚えるところから始まりますが、おおむねルールは単純なものが多く、すぐに覚えられます。でも、面白いと感じるゲームは運よりは戦略的な要素が多いので、大人が夢中になるのもよく理解できます。実際に遊んでみて、面白かったものについては、「今度またあれ持って来て」と、こちらからリクエストするようにさえなりました。

 そんな時間を過ごしながら、自分が子どもだった時のこと、あるいは自分の子どもたちが小さかった時のことを思い出していました。ババ抜きで盛り上がったこと、自分で作ったすごろくで一緒に遊んでもらったこと、ミニカー遊びに付き合っているうちに親の方が夢中になってその世界にはまり込んでいたりしたこと等々。園の砂場で年長児たちと遊んでいて、自分もすっかり年長児の友だちの一人になっていることにハッと気づいて苦笑いしたこともありました。

 かと言って、子どもの遊びに付き合うのは面白いと感じるばかりではありません。忙しい時を含め心に余裕のない時は、面倒だと思ったり、遊んで欲しいという要求をうっとうしいと思うこともあるのです。私にも自分の時間が必要なの!

 誤解を恐れずに言うなら、子どもと遊ぶためにはある程度の努力や我慢も必要なのかもしれません。しかも、「忙しいのに付き合ってあげてるんだよ!」というようなオーラを隠す努力を含むのです。なぜなら、子どもたちはそういう大人の態度を敏感に感じ取って、せっかく一緒に遊んいるのに満たされないからなのです。

 だから、子どものために時間を使うとき、それは本当に子どものための時間にすることをお勧めします。そうすれば、子どもは安心してその時間を過ごし、そして一緒に楽しんでいる親の笑顔を確認して満足できるからです。そして、大人の時間もちゃんと別に取ってください。大人のストレスは、子どもにうつりますからね。

園長:新井 純

 以前ネット情報で知ったお話から。

 妻の葬儀を終え、後日納骨のために遺骨を携えて飛行機に乗った客がいました。遺骨を持ち込めるかどうか、あらかじめ航空会社に問い合わせてありました。愛する妻の遺骨を預け荷物にするのは忍びないので、機内に連れて行きたいと思っていたのでしょう。

 搭乗後、座席に着くとキャビンアテンダント(CA)がやって来て尋ねました。「お隣の席を空けてあります。お連れ様はどちらにおられますか。」「上の棚です。」そう答えると、C Aは棚から遺骨の入った荷物を下ろして座席に置き、荷物にシートベルトを締めたのです。離陸後のドリンクサービスの際も、「これはお連れ様の分です。」と言って、飲み物の入った紙コップを置いていったのだとか。この客にとって、そのフライトは忘れ得ぬものになったのは言うまでもありません。

 もう一つ、ネットニュースから。ラーメン店で客の携帯電話が鳴りました。客は電話に出ましたが、込み入った話のようでなかなか戻って来ませんでした。ようやく通話が終わって客が席に戻った時、店主は一度出して伸びてしまったラーメンをさげ、もう一度熱々のラーメンを提供し、こう言いました。「お客さんに冷めたラーメンは食べさせられませんから。」客は感謝してこれを食べ、2杯分を払おうとしました。ところが、店主はこれを固辞し、1杯しか食べてもらってないからと1杯分の料金だけを受け取ったのです。客は、このラーメン店の美味しさと人気の秘密は、こうした店主の姿勢に表れていると思ったのでした。壁には「一杯入魂」と書いてありました。

 最後は園長の実体験。出張で新幹線に乗っていた時、こんな車内放送が流されました。「ただいま、洗面所にお薬の入ったポーチのお忘れ物がございました。お心当たりのある方は、客室乗務員がお近くをお通りの際にお声がけください。」日本人はやっぱり優しいなあと感心していたら、程なくしてまた放送がありました。「先ほどのお薬の忘れ物は、持ち主の方がわかりお返しすることができました。」ヒョエー!すごい!そこまでするかー!もっとも、気になっていた人にとってはホッとできるお知らせだから、この丁寧さには感動さえ覚えました。

 ここに挙げた3つのエピソードは、すべて「しなくても良いサービス」のお話です。しかも、いつも同じようにできるとは限らないことでもあります。飛行機が満席なら隣席をブロックしておくことは難しいでしょうし、日本の案内関係の放送は過剰だという批判もあります。ラーメンに至っては、食べなかったのは客の都合です。ですから、しなくても良いサービスだし、下手をすれば「前はしてくれたのに」とか「私の時はしてくれないのか」という、新たなトラブルの元にもなりかねません。だから、公平性の原理などにのっとれば、良かれと思ってもしない方が良いという判断もあり得ます。しかし、してもらえば嬉しいことはたくさんあります。上記のエピソードなどは、当事者だけでなく、周囲も幸せになるサービスです。不公平だと批判されてもなお、すべきサービスだったのかもしれません。だから、今できること、そしてその思いを表すことは素敵なことなのだと改めて思ったのでした。

園長:新井 純
 ある日京阪電車に乗った時のことです。あれ?この書き出し、記憶にあるな・・・あ、5月に同じようなフレーズで書き出してました。その時は席を譲ることの話でした。今回は別の話。

 通勤通学の乗客でいっぱいの特急列車で、こんな車内放送が聞こえてきました。「この列車は数分の遅れが生じております。お急ぎのところ御迷惑をおかけしておりますことをお詫びいたします。」えーっ!わずか数分の遅れでお詫びしなきゃならないの?京阪の特急は10分おきに来るんだよ?数分の遅れくらいは織り込み済みじゃないの?

 などと考えたのはしばらく後のことで、実はこれを聞いた瞬間に思ったのは「ん?この車掌さん、お詫びする気なんてさらさら無いね。」ということでした。というのも、電車の車掌さん独特の節回しと言いましょうか、停車駅の案内をする時と同じような声の調子でこのアナウンスをしていたのです。本気で申し訳ないという気持ちを伝えているとは到底思えませんでした。でも、お断りしておきますが、私はそのことに腹を立てているわけではありません。むしろ、前述のように、わずか数分の遅れについて、お詫びをしなければならないのかと驚いたほどです。

 では、何を考えたかと言うと、もし京阪電鉄という会社が「数分の遅れなんて日常茶飯事だから、それくらいええやん」と開き直ったら騒動になるだろうな、ということです。言い方を変えれば、現代の日本社会では、列車が数分遅れることくらいで腹を立てる人はそんなにいないだろうけど、それについて鉄道会社が「列車の遅れは日常茶飯事」と開き直ったら、それについては腹を立てる人は少なく無いと思われるということ。ですから、たとえお詫びする気なんて無くても、苦情を未然に防ぐとか、苛立っている人の心をなだめるなどの効果を期待して、「お詫びします」とひとこと発するのだということです。とりあえず形だけ、ポーズであろうとも、「お詫びします」という言葉は求められているのだと思ったのです。

 最近、「お客様は神様です」という、昔ながらの商人の心構えのような格言について、否を唱えるきっかけになるような出来事を耳にすることが増えました。例えば、レストランで横柄な態度を取る客、コンビニの店員にいちゃもんをつける客、自分の理屈ばかりを押し通して何らかの補償を要求するクレーマー、等々。いずれも、自分(客)の方が立場が上だと過剰に思い込んでいる人たちによってトラブルが引き起こされています。でも、理不尽な要求などに対して、サービスを提供する側が必要以上に卑屈になることは無いと、世間は認め始めました。

 聖書は、隣人を大切な存在だと認め合うことを求めています。それだけでなく、愛し合うことが必要だと勧めています。それは、赦し合いでもあるのです。そもそも完璧な人などいないのですから、自分もたくさんのことを赦してもらってきたはずであり、だったらお前さんも赦しなさいよ、と言われているかのようです。

 私たちは愛されたいし、大事にされたいと思っています。同じように、隣人もそう思っているのだと気づけば、行動や言動は少しずつ変わっていくはずです。

園長:新井 純

 6月16日から24日まで、バングラデシュへ行ってきました。世光保育園が加盟している日本キリスト教保育所同盟がバングラデシュのプレスクール(就学前児童の就学準備のための幼稚園のようなもの)活動を支援しており、その視察と交流をするためです。

 首都ダッカから小さなフェリーに乗り一晩川を下り、ボリシャルという町に着きます。そこには聾学校があり、耳の不自由な生徒たちが自立のためのトレーニングをしています。

 そこから西方面、クルナ管区というところへ移動し、さらにインドとの国境近くへ行くと、私たちが支援しているプレスクールが点在するタラという村にたどり着きます。

 プレスクールは1ヶ所に20〜40名程度の子どもたちがいて、読み書きや生活習慣などを教えています。バングラデシュの小学生の就学率は決して低くはありませんが、最後まで学び切れずに卒業できない子は少なくありません。外務省のデータによれば、就学率は97%、卒業するのは78%だそうです。親たちは子どもの教育の必要性について十分認識していて、少しでも良い教育を長く受けさせたいと願っています。しかし、小学校に入っても勉強についていけなければ学ぶ気力を失うので、せめてプレスクールで事前学習を受けさせたいと思っているようです。

 でも、それだけではありません。女性たちが自立するために女性たちも働きたいのですが、子どもがいたのでは働きに出られません。そこで、子どもをプレスクールに預けて学ばせている間、お母さんは畑に出たりするのです。その場合のプレスクールは、まさに保育園的な役割です。

 滞在期間中、プレスクールや小学校の先生方との意見交換の時を持ちました。いつもそうなのですが、現地からは「教材が足りない」「給食を食べさせてあげたい」「カバンや制服があれば、子どもたちが学校に来たいというモチベーションに繋がる」「私たちの給料も安いから、もう少し上げて欲しい」などの要望がたくさん出てきます。今回もそのような要望がたくさん出ました。その時です。同行してくれていた現地法人の理事長がひと言「自分たちには何ができるか。どんな工夫が可能か。要望ばかりではなく、そういうことも考えなさい。君たちにできる工夫はまだまだいっぱいあるはずだ。」と話されたので、驚きました。彼は、支援に依存する体質になりがちな思考に対し、自立を促したのです。

 以来、自立ということについて思いを巡らせています。読んで字のごとく、自分で立つという意味なのですが、何でもかんでも自分でしなければならないという意味ではないでしょう。自己責任とも違うし、助けを受けないということでもない。では自立とは何でしょう。

 それは、自分で立とうとすることだと思うのです。誰かに責任を押し付けたり、任せっきりにしたり、頼り切ったりするのではなく、助けを借りながらも自分で立とうとすること、それが自立でしょう。だとしたら、自覚と責任を持って自ら立ち続けようとする覚悟が求められます。そんな覚悟ないと泣き言を言いたくもなりましょうが、私たちは誰しもが社会の中である程度その覚悟を求められているのです。少なくともそういう人を応援したいな、と私は思うのです。

園長:新井 純


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