園長、実は料理男子。大したことはしませんが、居酒屋で食べて気に入ったおつまみとか、バングラデシュで食べたカレーとか、急に「カオマンガイ食べたい!」などのように思いついたものなど、自分で作ります。もちろん、家族と一緒に食べるためです。

はじめの頃は、材料費などを全く気にせず買い物をしたり、片付けないで料理を続けるからキッチンがぐちゃぐちゃになったりで、妻は嬉しいの半分、困ったちゃん半分だったようです。でも、次第に慣れてくるとこちらも要領が良くなってきますし、妻も自分では決して作らないメニューが出てくるので、楽しみにしてくれるようになりました。

そんな中、今回ご紹介するのはパンダカレー。
特に変わったところのない、ごく普通のカレーです。
が、ごはんがパンダ(笑)
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ごはんを俵型のおにぎりにし、海苔で目鼻や模様を作り貼り付けただけ。
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ネットで見つけました。おしりも可愛いでしょ(^^)
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普段から仕事、子育て、家事に奮闘していると、身体だけじゃなく心も疲れてきますね。お疲れさまです。
でも、ちょっと心に余裕ができた時には、子どもと一緒にこんなことをしてみると、楽しい時間が過ごせるかもしれません。
このような、日常の、ほんの些細なことを子どもは楽しかった思い出として心に残していくものです。
 10月に入ると言うのに、なんでこんなに暑いのでしょう。国連では、温暖化対策に消極的な先進国に対し、スウェーデン人少女が涙ながらに怒りのスピーチをしたことがニュースになりました。この高気温が一過性のものではなく地球温暖化の影響だとしたら、人類は地球上で最も繁栄していながら絶滅の危機に瀕していると言わねばなりません。たとえそうでなくても、自然との共存ということについて、私たちはもう少し謙虚にならなければいけないと思う今日この頃です。

 うちの長男(社会人です)は最近カードゲームがお気に入りのようで、同好の士が集まるカフェなどに行っているという話を聞きました。一人では遊べないカードゲームやボードゲームでも、そこに行けば同じ趣味の誰かが遊び相手を待っているので、一人で出かけて行ってもゲームを楽しめるというわけです。休みが取りにくい忙しい日々、たまの休みにそのような場所を訪れ、同好の士とゲームを楽しみながら友だちもできるのですから、面白い趣味を見つけたものだと感心していました。

 その彼が、月に1度くらい我が家に帰ってくるたびに新しいゲームを持ってくるようになりました。楽しいと思うことを共有したいようです。そこで、家族ゲーム大会が始まります。新しいゲームが多いので、ルールを覚えるところから始まりますが、おおむねルールは単純なものが多く、すぐに覚えられます。でも、面白いと感じるゲームは運よりは戦略的な要素が多いので、大人が夢中になるのもよく理解できます。実際に遊んでみて、面白かったものについては、「今度またあれ持って来て」と、こちらからリクエストするようにさえなりました。

 そんな時間を過ごしながら、自分が子どもだった時のこと、あるいは自分の子どもたちが小さかった時のことを思い出していました。ババ抜きで盛り上がったこと、自分で作ったすごろくで一緒に遊んでもらったこと、ミニカー遊びに付き合っているうちに親の方が夢中になってその世界にはまり込んでいたりしたこと等々。園の砂場で年長児たちと遊んでいて、自分もすっかり年長児の友だちの一人になっていることにハッと気づいて苦笑いしたこともありました。

 かと言って、子どもの遊びに付き合うのは面白いと感じるばかりではありません。忙しい時を含め心に余裕のない時は、面倒だと思ったり、遊んで欲しいという要求をうっとうしいと思うこともあるのです。私にも自分の時間が必要なの!

 誤解を恐れずに言うなら、子どもと遊ぶためにはある程度の努力や我慢も必要なのかもしれません。しかも、「忙しいのに付き合ってあげてるんだよ!」というようなオーラを隠す努力を含むのです。なぜなら、子どもたちはそういう大人の態度を敏感に感じ取って、せっかく一緒に遊んいるのに満たされないからなのです。

 だから、子どものために時間を使うとき、それは本当に子どものための時間にすることをお勧めします。そうすれば、子どもは安心してその時間を過ごし、そして一緒に楽しんでいる親の笑顔を確認して満足できるからです。そして、大人の時間もちゃんと別に取ってください。大人のストレスは、子どもにうつりますからね。

園長:新井 純

 以前ネット情報で知ったお話から。

 妻の葬儀を終え、後日納骨のために遺骨を携えて飛行機に乗った客がいました。遺骨を持ち込めるかどうか、あらかじめ航空会社に問い合わせてありました。愛する妻の遺骨を預け荷物にするのは忍びないので、機内に連れて行きたいと思っていたのでしょう。

 搭乗後、座席に着くとキャビンアテンダント(CA)がやって来て尋ねました。「お隣の席を空けてあります。お連れ様はどちらにおられますか。」「上の棚です。」そう答えると、C Aは棚から遺骨の入った荷物を下ろして座席に置き、荷物にシートベルトを締めたのです。離陸後のドリンクサービスの際も、「これはお連れ様の分です。」と言って、飲み物の入った紙コップを置いていったのだとか。この客にとって、そのフライトは忘れ得ぬものになったのは言うまでもありません。

 もう一つ、ネットニュースから。ラーメン店で客の携帯電話が鳴りました。客は電話に出ましたが、込み入った話のようでなかなか戻って来ませんでした。ようやく通話が終わって客が席に戻った時、店主は一度出して伸びてしまったラーメンをさげ、もう一度熱々のラーメンを提供し、こう言いました。「お客さんに冷めたラーメンは食べさせられませんから。」客は感謝してこれを食べ、2杯分を払おうとしました。ところが、店主はこれを固辞し、1杯しか食べてもらってないからと1杯分の料金だけを受け取ったのです。客は、このラーメン店の美味しさと人気の秘密は、こうした店主の姿勢に表れていると思ったのでした。壁には「一杯入魂」と書いてありました。

 最後は園長の実体験。出張で新幹線に乗っていた時、こんな車内放送が流されました。「ただいま、洗面所にお薬の入ったポーチのお忘れ物がございました。お心当たりのある方は、客室乗務員がお近くをお通りの際にお声がけください。」日本人はやっぱり優しいなあと感心していたら、程なくしてまた放送がありました。「先ほどのお薬の忘れ物は、持ち主の方がわかりお返しすることができました。」ヒョエー!すごい!そこまでするかー!もっとも、気になっていた人にとってはホッとできるお知らせだから、この丁寧さには感動さえ覚えました。

 ここに挙げた3つのエピソードは、すべて「しなくても良いサービス」のお話です。しかも、いつも同じようにできるとは限らないことでもあります。飛行機が満席なら隣席をブロックしておくことは難しいでしょうし、日本の案内関係の放送は過剰だという批判もあります。ラーメンに至っては、食べなかったのは客の都合です。ですから、しなくても良いサービスだし、下手をすれば「前はしてくれたのに」とか「私の時はしてくれないのか」という、新たなトラブルの元にもなりかねません。だから、公平性の原理などにのっとれば、良かれと思ってもしない方が良いという判断もあり得ます。しかし、してもらえば嬉しいことはたくさんあります。上記のエピソードなどは、当事者だけでなく、周囲も幸せになるサービスです。不公平だと批判されてもなお、すべきサービスだったのかもしれません。だから、今できること、そしてその思いを表すことは素敵なことなのだと改めて思ったのでした。

園長:新井 純
 ある日京阪電車に乗った時のことです。あれ?この書き出し、記憶にあるな・・・あ、5月に同じようなフレーズで書き出してました。その時は席を譲ることの話でした。今回は別の話。

 通勤通学の乗客でいっぱいの特急列車で、こんな車内放送が聞こえてきました。「この列車は数分の遅れが生じております。お急ぎのところ御迷惑をおかけしておりますことをお詫びいたします。」えーっ!わずか数分の遅れでお詫びしなきゃならないの?京阪の特急は10分おきに来るんだよ?数分の遅れくらいは織り込み済みじゃないの?

 などと考えたのはしばらく後のことで、実はこれを聞いた瞬間に思ったのは「ん?この車掌さん、お詫びする気なんてさらさら無いね。」ということでした。というのも、電車の車掌さん独特の節回しと言いましょうか、停車駅の案内をする時と同じような声の調子でこのアナウンスをしていたのです。本気で申し訳ないという気持ちを伝えているとは到底思えませんでした。でも、お断りしておきますが、私はそのことに腹を立てているわけではありません。むしろ、前述のように、わずか数分の遅れについて、お詫びをしなければならないのかと驚いたほどです。

 では、何を考えたかと言うと、もし京阪電鉄という会社が「数分の遅れなんて日常茶飯事だから、それくらいええやん」と開き直ったら騒動になるだろうな、ということです。言い方を変えれば、現代の日本社会では、列車が数分遅れることくらいで腹を立てる人はそんなにいないだろうけど、それについて鉄道会社が「列車の遅れは日常茶飯事」と開き直ったら、それについては腹を立てる人は少なく無いと思われるということ。ですから、たとえお詫びする気なんて無くても、苦情を未然に防ぐとか、苛立っている人の心をなだめるなどの効果を期待して、「お詫びします」とひとこと発するのだということです。とりあえず形だけ、ポーズであろうとも、「お詫びします」という言葉は求められているのだと思ったのです。

 最近、「お客様は神様です」という、昔ながらの商人の心構えのような格言について、否を唱えるきっかけになるような出来事を耳にすることが増えました。例えば、レストランで横柄な態度を取る客、コンビニの店員にいちゃもんをつける客、自分の理屈ばかりを押し通して何らかの補償を要求するクレーマー、等々。いずれも、自分(客)の方が立場が上だと過剰に思い込んでいる人たちによってトラブルが引き起こされています。でも、理不尽な要求などに対して、サービスを提供する側が必要以上に卑屈になることは無いと、世間は認め始めました。

 聖書は、隣人を大切な存在だと認め合うことを求めています。それだけでなく、愛し合うことが必要だと勧めています。それは、赦し合いでもあるのです。そもそも完璧な人などいないのですから、自分もたくさんのことを赦してもらってきたはずであり、だったらお前さんも赦しなさいよ、と言われているかのようです。

 私たちは愛されたいし、大事にされたいと思っています。同じように、隣人もそう思っているのだと気づけば、行動や言動は少しずつ変わっていくはずです。

園長:新井 純

 6月16日から24日まで、バングラデシュへ行ってきました。世光保育園が加盟している日本キリスト教保育所同盟がバングラデシュのプレスクール(就学前児童の就学準備のための幼稚園のようなもの)活動を支援しており、その視察と交流をするためです。

 首都ダッカから小さなフェリーに乗り一晩川を下り、ボリシャルという町に着きます。そこには聾学校があり、耳の不自由な生徒たちが自立のためのトレーニングをしています。

 そこから西方面、クルナ管区というところへ移動し、さらにインドとの国境近くへ行くと、私たちが支援しているプレスクールが点在するタラという村にたどり着きます。

 プレスクールは1ヶ所に20〜40名程度の子どもたちがいて、読み書きや生活習慣などを教えています。バングラデシュの小学生の就学率は決して低くはありませんが、最後まで学び切れずに卒業できない子は少なくありません。外務省のデータによれば、就学率は97%、卒業するのは78%だそうです。親たちは子どもの教育の必要性について十分認識していて、少しでも良い教育を長く受けさせたいと願っています。しかし、小学校に入っても勉強についていけなければ学ぶ気力を失うので、せめてプレスクールで事前学習を受けさせたいと思っているようです。

 でも、それだけではありません。女性たちが自立するために女性たちも働きたいのですが、子どもがいたのでは働きに出られません。そこで、子どもをプレスクールに預けて学ばせている間、お母さんは畑に出たりするのです。その場合のプレスクールは、まさに保育園的な役割です。

 滞在期間中、プレスクールや小学校の先生方との意見交換の時を持ちました。いつもそうなのですが、現地からは「教材が足りない」「給食を食べさせてあげたい」「カバンや制服があれば、子どもたちが学校に来たいというモチベーションに繋がる」「私たちの給料も安いから、もう少し上げて欲しい」などの要望がたくさん出てきます。今回もそのような要望がたくさん出ました。その時です。同行してくれていた現地法人の理事長がひと言「自分たちには何ができるか。どんな工夫が可能か。要望ばかりではなく、そういうことも考えなさい。君たちにできる工夫はまだまだいっぱいあるはずだ。」と話されたので、驚きました。彼は、支援に依存する体質になりがちな思考に対し、自立を促したのです。

 以来、自立ということについて思いを巡らせています。読んで字のごとく、自分で立つという意味なのですが、何でもかんでも自分でしなければならないという意味ではないでしょう。自己責任とも違うし、助けを受けないということでもない。では自立とは何でしょう。

 それは、自分で立とうとすることだと思うのです。誰かに責任を押し付けたり、任せっきりにしたり、頼り切ったりするのではなく、助けを借りながらも自分で立とうとすること、それが自立でしょう。だとしたら、自覚と責任を持って自ら立ち続けようとする覚悟が求められます。そんな覚悟ないと泣き言を言いたくもなりましょうが、私たちは誰しもが社会の中である程度その覚悟を求められているのです。少なくともそういう人を応援したいな、と私は思うのです。

園長:新井 純

「成功体験」ある会議でこんなワードが出てきました。かつて成功した体験を元に、それを繰り返して成功させようとする動機のことです。その会議では、盛り上がりに欠けている活動について、大先輩と呼ばれるような高齢の方々が、今の若い世代は何をやっているのだ!と叱責してくるという悩みが吐露されました。今の若い世代は盛り上げる努力が足りないということのようでした。

 確かに批判は甘んじて受けねばならないでしょうし、言い逃れはできません。既存のものを守ったり継承したりするだけでは、すたれてしまうものは確かにあるのです。例えば、日本の伝統芸能である歌舞伎。しっかり受け継いでいかねばならない重要な日本文化の一つですが、次世代にソッポを向かれれば、消滅しかねません。ですから、日本の伝統芸能であるにも関わらず、古典ばかりでなく近代的なテーマを取り込んだ演目なども行われるようになっています。最近では人気マンガのワンピースも歌舞伎になっているとか。歌舞伎でさえそういうチャレンジをしているのですから、文化活動だろうと経済活動だろうと、既存の仕方ばかりではなく、新しいことにもチャレンジするなど、盛り上げたければ様々な努力を惜しんではいられないということです。

 しかし、大先輩方の成功体験だけを拠り所とすると、うまくいかないものです。具体的には、「かつて自分はこういう方法で上手くいった」という手法で物事を進めようとしても、必ずしも同じような成功に導かれるとは限らないのです。理由は様々でしょうが、大雑把に言えば状況や背景は皆同じではないからです。もう少し乱暴に言うと、「時代が違う」のです。
では、成功体験は無駄なのでしょうか?

そうではありません。成功体験は成功の具体例ですから、繰り返して成功することはたくさんあるでしょう。それ以上に、成功体験は私たちに自信を持たせてくれるという点において、大いに役立っています。問題は、成功の一例としての一つの体験に固執した場合です。

例)畑にトマトの苗を植えたら沢山収穫できました。これ成功体験。でも、翌年同じように同じところにトマトを植えたのに、みんな病気になったりして不作でした。運が悪かったのかな?だからさらに翌年同じようにしてみたけど、また失敗。成功したときと同じようにしたのに、なぜ?

 これは、トマトを含むナス科の植物は同じ場所(同じ土)では連続して作れない性質があるからなのです。もし、最初に失敗した時に、なぜ?という疑問と共に原因究明を探していれば、2年連続の失敗はなかったでしょう。でも、一度の成功体験に固執して同じことしか続けなかったとしたら、二度と成功できない可能性だってあるのです。

 ということは、成功体験と同じように、失敗体験も大切だということがわかります。成功するばかりでなく、失敗して悔しいとか痛いとか悲しいとか、そういうことも私たちを成長させてくれる大切な力になっているのです。

 子どもたちにはたくさんの体験をさせてあげたいと思っているのは、成功体験はもちろん、失敗からも沢山学び、それらが生きる力になると信じるからです。

園長:新井 純

先日、京阪特急に乗った時のことです。朝9時頃だったので、まだ通勤通学の乗客もいて混んでいました。次の駅でそれなりの下車があり、目の前の二人席が空いたので、運良く通路側に座ることが出来ました。その直後、乗車して来たおばあさんが私の真横に立つではありませんか。なので、間伐入れずに立ち上がり席を譲りました。上品に会釈して着席したおばあさん、慣れてる感じ。ん、もしかして、狙われた?と心の中で苦笑い。

 念の為、ぐるりと車内を見渡します。座席が横並びになっている車両と違い車両の中間は進行方向を向く座席だったのと、多少混んでいたので、席が少しでも離れていたら譲りにくい状況だったな、と思いました。同時に、なぜこのおばあさんは優先席の方へいかず、中央に入って来たんだろう?などと考え始めました。

 電車やバスで席を譲るか否かという議論が度々なされます。内容としては、元気な人は当然席を譲るべきだという考え方に対し、「元気そうでも疲れていることもある」「体調が優れないこともある」「見えないハンディキャップを負っている」「忙しくて寝る暇もないから電車の中で寝たい」などなど、見かけで判断されて席を譲るのが当然だという見方は違うのではないか?というものです。加えて、「席を譲ったら、バカにするなと叱られた」というケースもあるようです。せっかく席を譲ったのにそれはないですよね。

 でも、そもそもなぜ席を譲ることが勧められるようになったのかを考えてみなければなりません。それは、立っているのがしんどそうな人への思いやりだったのではなかったでしょうか。それが優先席設置のきっかけでしょう。

 優先席はやがて高齢者のみならず、障がい者や妊婦も対象であるという広報がなされていきました。良い広がりだったと思います。なぜなら、皆思いやる気持ちが必要な人たちですから。

 だとしたら、やはり優先席がいつでも「優先されるべき人たち」が気兼ねなく座れなければなりません。疲れてる?眠い?それは誰でも一緒。座りたければ他の人たちと一緒に椅子取り競争に臨みなさい。優先席はそうした競争に参加しにくい、配慮が必要な人たちに「優先」されているのです。じゃあ、せっかく席を譲ったのに、バカにするなと叱られたらどうする?→それはレアケースです。「そういうこともある」からと言って、優先席の権利を侵害していたとしたら、そのことを正当化できると思ってはなりません。

 この考え方に、異論がある方もおられましょう。それは承知の上です。でも、「自分が配慮して欲しい」と思った時にこそ気づかされる事柄はたくさんあるものです。例えば、荷物いっぱい持ってベビーカー押して電車に乗ったら、ベビーカーは邪魔だから畳むのがマナーだ、なんて言われたら切ないでしょ? 大事なのは、自分の主張が自己正当化に終始してないか?そこに隣人への配慮、思いやりはあるか?という振り返りです。優先席が優先じゃなくなっているから、高齢者は譲ってくれそうな人のそばに立つ、なんてことがある社会だとしたら、それは恥ずべきことです。

子どもたちは大人の行動を見ていて真似をします。だから、真似されるに値する大人でありたいと改めて思ったのでした。

園長:新井 純

新入園児とご家族の皆さん、入園おめでとうございます。在園児とご家族の皆さん、進級おめでとうございます。ここから始まる1年が、子どもたちにとって、またご家族の皆様にとって豊かな実りあるものとなりますようお祈りします。

 大きくなったら何になりたいか?大人が子どもたちによくする質問です。まだまだファンタジーの世界で生きている3〜4歳児なら「アンパンマン!」「プリキュア!」などという答えが返ってくるのも珍しくありませんし、可愛いねぇ〜などと笑っていられます。それが年長になっても同じようなことを言っていると「おいおい、そろそろ現実的なことを考えてはどうだい?」という気になるでしょう。でも、そんなのは放っておけば良いのです。いつまでもそんなことを言い続けるわけではありませんから。

 どこの調査かわかりませんが、中学生のなりたい職業アンケートで、ユーチューバーなどの動画投稿者が上位に食い込んでいるのだとか。初めて聞いた時は驚きましたが、よくよく考えれば現代の価値観がよく表れているようにも思えました。すなわち、良い面を捉えれば、自由だし、独創性が生かせるし、創造的で人を楽しませることもできます。

 一方、親が子どもになって欲しくない職業のぶっちぎり1位がユーチューバーだとも。「楽して儲けられると思うな」「いつまでも続かない」「安定していない」「再生回数ばかり気になり始め、物事の良し悪しの分別がつかなくなりかねない」「他者のためのなる仕事をして欲しい」などなどがその理由。なるほど。確かにそうだなと思う一方、でもそれは、例えば視聴率を上げたいために過度な演出やヤラセをする番組制作会社などにも向けられる意見でもありますし、そもそも様々なビジネスが生まれては消え、あるいは栄えては衰退するということを繰り返していることを思えば、動画投稿を職業としたいという思いを無下に否定するのもおかしな話ではあります。もっとも、だからといって、「ユーチューバーになりたい?いいじゃないか!」などと諸手を挙げて賛成しようという気にもなりませんが(苦笑)。

 このモヤモヤは何なのだろう?と思い巡らせていたのですが、見通しの立たない不確かなものへの不安なのかな、と思いあたりました。大人だろうが子どもだろうが、次にどうなるかがわからなければ不安になるものです。仮に、端から見て見通しが甘すぎると思っても、本人に「きっとこうなる」「こうしてみせる!」みたいな希望が溢れていれば、不安よりは期待が方が大きくなるでしょう。ユーチューバーになりたいとか、芸人になりたいという若者が増えているのは、そうした希望の方が不安を上回っているのだろうと想像します。でも、大人はより堅実な道を勧めるものです。成功はして欲しいけど、失敗のリスクは極力下げたいと思うからです。
子どもたちにとって何が良いのか、どうしてあげるのが良いのかは、必ずしもハッキリとした答えがあるわけではありません。その中で、今できること、すべきことは、様々な可能性を秘めている子どもたちに、様々な力を蓄えるチャンスを提供することなのでしょう。それをしてあげられる園でありたいと思います。

園長:新井 純

この度、園長ブログ『カピバラのひげ』を開設する運びとなりました。

投稿まで今しばらくお待ちください。

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