ある日京阪電車に乗った時のことです。あれ?この書き出し、記憶にあるな・・・あ、5月に同じようなフレーズで書き出してました。その時は席を譲ることの話でした。今回は別の話。

 通勤通学の乗客でいっぱいの特急列車で、こんな車内放送が聞こえてきました。「この列車は数分の遅れが生じております。お急ぎのところ御迷惑をおかけしておりますことをお詫びいたします。」えーっ!わずか数分の遅れでお詫びしなきゃならないの?京阪の特急は10分おきに来るんだよ?数分の遅れくらいは織り込み済みじゃないの?

 などと考えたのはしばらく後のことで、実はこれを聞いた瞬間に思ったのは「ん?この車掌さん、お詫びする気なんてさらさら無いね。」ということでした。というのも、電車の車掌さん独特の節回しと言いましょうか、停車駅の案内をする時と同じような声の調子でこのアナウンスをしていたのです。本気で申し訳ないという気持ちを伝えているとは到底思えませんでした。でも、お断りしておきますが、私はそのことに腹を立てているわけではありません。むしろ、前述のように、わずか数分の遅れについて、お詫びをしなければならないのかと驚いたほどです。

 では、何を考えたかと言うと、もし京阪電鉄という会社が「数分の遅れなんて日常茶飯事だから、それくらいええやん」と開き直ったら騒動になるだろうな、ということです。言い方を変えれば、現代の日本社会では、列車が数分遅れることくらいで腹を立てる人はそんなにいないだろうけど、それについて鉄道会社が「列車の遅れは日常茶飯事」と開き直ったら、それについては腹を立てる人は少なく無いと思われるということ。ですから、たとえお詫びする気なんて無くても、苦情を未然に防ぐとか、苛立っている人の心をなだめるなどの効果を期待して、「お詫びします」とひとこと発するのだということです。とりあえず形だけ、ポーズであろうとも、「お詫びします」という言葉は求められているのだと思ったのです。

 最近、「お客様は神様です」という、昔ながらの商人の心構えのような格言について、否を唱えるきっかけになるような出来事を耳にすることが増えました。例えば、レストランで横柄な態度を取る客、コンビニの店員にいちゃもんをつける客、自分の理屈ばかりを押し通して何らかの補償を要求するクレーマー、等々。いずれも、自分(客)の方が立場が上だと過剰に思い込んでいる人たちによってトラブルが引き起こされています。でも、理不尽な要求などに対して、サービスを提供する側が必要以上に卑屈になることは無いと、世間は認め始めました。

 聖書は、隣人を大切な存在だと認め合うことを求めています。それだけでなく、愛し合うことが必要だと勧めています。それは、赦し合いでもあるのです。そもそも完璧な人などいないのですから、自分もたくさんのことを赦してもらってきたはずであり、だったらお前さんも赦しなさいよ、と言われているかのようです。

 私たちは愛されたいし、大事にされたいと思っています。同じように、隣人もそう思っているのだと気づけば、行動や言動は少しずつ変わっていくはずです。

園長:新井 純


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